都鄙の論理〜投書語句解説
2004年3月2日「朝日新聞」朝刊「声」欄に「知事の職務と、居住の自由と」という見出しで、以下の文章が載った。
長野県の田中知事が住民票を泰阜村に移した問題で県庁所在地の長野市と、県南部の静岡県境にある泰阜村のやりとりが話題になっている。
生活の実態は長野市にあると住民税の課税権を主張する長野市と、「泰阜村の住民でありたい」とする知事の意向を受けた形の泰阜村とのゴタゴタだが、一連の報道に不可解に思うことが二つある。
一つは、泰阜村から長野市までどんなに急いでも片道3〜4時間はかかる。従って実質上、通勤は困難。知事の公務をこなそうというのであれば、常識的に考えて長野市に滞在しなければ無理であろう。
生活の本拠が住民基本台帳や課税対象の条件になるならば、泰阜村民は自分の県の知事になることはできない。県民が、古里の村の住民であり続けながら知事になることができない仕組みなのだろうか。
二つ目は、もし長野市の主張が通るとすれば、憲法が居住・移転の自由を保障しても、公務に就く者は住みたい所に住民票を移せないことになる。企業や官庁の単身赴任者らにもその論理が適用されるのだろうか。
田中知事だけに、政治的な思惑が絡んでいるのか、首を傾げたくなる出来事だ。
2月27日のこのサイト「管理人日記 http://plaza.rakuten.co.jp/odanet/ 」で書いたものを、新聞用に多少書きあらためてメールで送った。それを「声」欄の編集子が縮めるかたちで訂正し、新聞掲載にあたってさらに数カ所、棘(とげ)が抜かれた。けれども、まぁ問題提起の方が先だろうと、掲載を優先した。新聞掲載の文章をテキストに行間を解説してみよう。
まず「ゴタゴタ」。これは「本来はなくてもいい、どうでもいい問題」という意味で、「時間と労力や、ましてや税金を使ってやるべき問題ではないし、知事がたる人の提起する問題ではない」という激しい憤りが背後にある。
ただ、今回の長野市のいいがかりには、単なる田中嫌いでは見過ごせない、都市の奢(おご)りのようなものがあるように感じられた。それが意識されないまま田中攻撃とゴチャゴチャになる危険性があった。従って泰阜村民は、「古里の村の住民であり続けながら」「自分の県の知事になることはできない」という表現で、問題は田中知事だからでかたづけられてはならない、都市のおごり、鄙のアイディンティティーにかかわる問題なのだ、と置きかえたのだ。
鄙のアイディンティティーとは、田舎に暮らしたい、田舎を守りたいという心性。これは、目前では、都市の経済第一の物差しで測られ、ないがしろにされる僻遠の地の問題であるが、敷衍すれば、東京と地方都市になり、あるいはアメリカとそれ以外の国の問題だし、実は個々人の心の中のマジョリティとマイノリティの問題でもある。
行政手法には似つかわしくない争い、強いて言えば文学的手法による子供じみた茶番劇の中で、誰も何も言わなければ田中批判に紛れた「鄙のアイディンティティー」のネグレクトが白昼堂々まかり通ることになる…そんな思いに駆られて、始業前の5分くらいで書いて、推敲もせずにメールした投書だった。
元飯田市長や泰阜村長、熊谷元一さんや業界人や知人友人、見ず知らずの人から、的を得たもの的はずれなもの、様々な反応があった。が、知事や議会、県はいつまでこんな茶番を繰り広げれば気がすむのだろう。
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