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お気楽書評

『復刻 民俗学』『非常民の民俗文化』『非常民の民俗境界』『非常民の性民俗』
            在野・反骨の民俗史家 赤松啓介の著作

 名前だけは知っていたものの、著書を手にすることはなかった。暮れに、ある人から真顔で「読んだことがありますか?」と聞かれ、読んだことがないと答えると、急に恥ずかしくなって読む気持ちになった。インターネットで3冊取り寄せ、正月休みを待てずに読み出した。これは、と思って、もう1冊追加。年末年始のバタバタやPTA行事が重なる中で、眠り薬かわりに頁を開き、朝方目が覚めたら頁を捲った。

 いわゆる柳田国男の民俗学がアカデミズムの主流を占めていく中で、1939年から43年まで入獄していた彼の柳田批判が識者の眼に届かなかったのは致し方ないことだったのかもしれない。柳田民俗学をプチブル的と批判するのは何も思想的な立場ばかりを指しているのではない。今、復刻され読むことの出来るようになった1938年に書かれた『民俗学』では、柳田民俗学の方法論に対して喧嘩腰ではあるが、「常民」の定義一つにしても的確な批判がなされている。部落差別や漂流者階層の捉え方にしても、たとえ一面的であろうと、行商人やクズヤなど自らが内部に入り体験して知り得たことが資料として提示されている点、外部の採集者である学者とは一線を事にする。そこでは柳田学で「常民」として括られた階層の埒外に様々な階層が実存し、それぞれに固有な習俗を持った人々が日本列島に生きていることを実証している。彼が「非常民」と呼ぶ、柳田学に切り捨てられた層の人々の民俗の中にこそ、島国日本の民俗の根っこがあるのではないか、と読み進むうちに思えてきた。

 彼が「夜這い」を取り上げ、非常民たちの「性」民俗や流動漂泊の人々の民俗を殊更にとりあげるのは、そうした被支配者層の民俗の中に、支配政権の意図とその破綻、ときにはそれにとどまることのない人間の生活を見ているからのような気がする。部落差別に触れて「部落差別を政治的演出とみるならば、その解消は簡単である。維新直後の解放令で始末がついたであろう。われわれ一般民衆が、その差別意識、排他的感情を利益に感じ、確保しようと意図する限り、部落差別はなくならない。(中略)すべての責任は、われわれ一般村落の人間と、それを支持したすべての民衆にある。われわれは糾弾されるまでもなく、自らうちなる差別意識と排他構造を改革し、被差別部落の解放運動と連携して、人間の新たなる地平を開くべきである」(「村落社会の民俗と差別」)と述べているが、こうした問題意識が柳田民俗学にはない。祭りや民俗の表面を記録するだけでは、どうしても見えてこないものもある。


                


 こころは谷を思う〜『伊那谷の民俗と思想』発刊
            後藤教授遺著の刊行経緯にふれて

 明治大学の後藤総一郎教授から電話をもらったのは2002年7月の中頃だったと思う。内容は、2000年3月に刊行した『柳田学の地平線』(信濃毎日新聞社刊)以後の、伊那谷関係の講演録と論文に、書き下ろしの数編を加えてまとめ、『伊那谷の民俗と思想』という本を出版したいので協力してほしい、とのことだった。後藤先生については、以前明治大学のゼミの学生先生たちと10年がかりで『飯田・下伊那雑誌新聞発達史』をまとめた経緯もある。この春先、体調を崩されて入院されたと聞いていたので、電話の向こうの、元気な、そして張りのある声に接して嬉しく思った。
 1週間も経ずして原稿が送られてきた。書き下ろし数篇、講演記録1篇は8月上旬の来飯予定までに送るということであった。入力を急ぎ、また別送されてきた講演記録を組み込みを始めた。8月5日飯田市のホテル三宜亭のロビーでお会いしたときも、歩行と会話にまだいくらか病の影を曳いていたもののお元気であった。本の装幀や条件を詰める作業の中で、かえって病み上がりだったわたしの体調を気づかってくれる程であった。9月5日に第1校が出来上がり、宅配便で鎌倉の自宅に送った。しかし、いつもであれば、数日の内に、あの独特な万年筆の字で、原稿の着信と叱咤激励ともつかぬ今後の予定を知らせる便りが届くはずであったが3週間たっても音沙汰がない。10月になって自宅に電話すると、三枝子夫人から、再入院を知らされた。突然の入院だったが、しかし、病院のベッドでも書き下ろし予定の原稿を書いているというので、刊行の進行は先生の体調次第と決め、しばらく連絡をさしあげずにいた。しかし、転院や入退院の闘病生活が始まったのはそれからだった、と、暮れ近くなって知人から知らされた。そして1月の訃報に接した。
 先生が亡くなって後、諸々の流れから考えるに、あの電話は、おそらく先生が映画「阿弥陀堂だより」を夫人と一緒に観た直後のことであったろうと推測された。「阿弥陀堂だより」について、後藤先生は遺著になった本書『伊那谷の民俗と思想』(南信州新聞社出版局刊)の序で「久しぶりに映画を観た。/そして久しぶりに映画に噎んだ。/このところ、しばらく映画を観る機会をもてなかったこともあってか、あるいはこの春、少々体調をくずしたあとだったからなのか、こんなにもだらしないと思うほどにわたしの感情にストレートに突きささり、激しく揺さぶった映画を観た体験もその記憶もない」と述べている。映画は、東京の大学病院の先端医療の第一線で働いている有能な女医が心の病にかかり、夫のすすめで彼の故郷である北信濃の田舎に戻り、美しい四季の移ろいのなかで、人間として「生きること」の原点を見いだしていく、というものである。詳しい映画の紹介はおくこととして、今、上梓された遺著を手にして改めて思うことは、後藤先生が、この映画の中に「喪っていった多くの生活と精神を支えていたいわゆる民俗的世界の諸々の事象が思い出され、合理主義の名のもとに打ち捨ててきた、日本人の不合理ではあるが、自然と溶けあい自然を神として敬い祀ってきたアニミズム信仰の敬虔な精神の喪失が、今日のさまざまな精神と倫理における病理を生み出している」と感じ、自身への励ましと、また自戒の意味を込めて、この本の発刊を思い立ったのではないかということだ。
 先生が亡くなったあとの虚脱状態の中で、この本には手をつけることができなかった。後藤先生がベッドの上で校正していた原稿や最後まで気にしていた書き下ろし原稿の行方も気にかかったが、あえて追わなかった。1度、関係者と称する人から連絡があったが要領を得ず、連絡はそれきりだった。
 再びこの本の企画が動き出したのは、03年の春先のことだった。11月1日から3日にかけて飯田市美術博物館で開かれる「常民大学の30周年研究集会」にあわせて、遺作になった本書を刊行したいという連絡が、伊那民俗学研究所のスタッフから入った。研究集会は、柳田国男の学問を基軸に学びを深める全国の10カ所の常民大学が一堂に会する。いうまでもなく後藤先生は、それらの常民大学の推進者で主宰講師でもあり、求心力であった。本は当日に向けて2校、3校と手を入れられ、ようやく刊行の運びとなった。
 30年を歩みを記念する集会は、期せずして、後藤総一郎亡き後の常民大学の再出発であり、今後の常民大学の行方も左右しそうである。後藤先生は常民大学の活動を通して、全国に多くの学びの種を播き、それが着々と育ちつつある。しかし、やんぬるかな、求心力そのものが育たなかった恨みもまた尽きない。
 本書は「天龍水系の世界観」「大鹿歌舞伎の民俗思想史的考察」他5篇からなる第1章「伊那の民俗」、「満島捕虜収容所の思想史的検証」「『天龍村史』始末記」他3篇の第2章「伊那谷の思想」、書き下ろしの「松澤太郎〜読書の人」など伊那谷の人物4人の評伝を集めた3章「伊那谷の人と思想」、5章「惜別」では武井正弘、柳田為正両氏への追悼の文、まえがきは後藤総一郎、あとがきは三枝子夫人が書いている。
 本書は四六判上製本224ページ、本体価格1800円。研究集会で紹介された後、市内書店でも販売される予定。(2003.10.27)


 遺作写真集『彩魚』刊行 製作過程に寄り添うように編集

 木彫家の田畑博之さん(37歳)が宮田村の山林内の谷に軽トラックごと転落するという不慮の事故で亡くなって、もうすぐ1年になる。釣りの専門誌『Fly Fisher』のトップグラビアを飾るなど、木彫りに彩色した、まるで生きているかのような魚たちを次々に彫り出し、注目を浴びていた矢先の出来事であった。「どんな作品でも手を抜けない人でした」と妻の光代さんが語るように、作品の対象でもあり、放流を目的に育てていたカジカの餌にする川虫を捕りに出かけたおりの事故だった。
 田畑さんは1965年駒ヶ根市に生まれた。東京での会社勤めの傍ら彫り始めた木彫の魅力に憑かれ、94年から淡水魚を中心に彫り始め、98年にはその拠点を宮田村に移した。「彩魚」と名づけられた彼の木彫彩色の魚たちは、00年には日本選抜作家として中国南京美術展に出品されるなど、各界の注目を浴び始めていた。東京での展覧会が中心だったが、02年12月8日には地元で初の個展が予定されていた。事故は、その一月前。急を聞いて駆けつけた宮田村のアトリエには、出番を待つ彩魚たちが主人の死を知らず、ぬめるような光を放っていた。
「地元での初の個展が遺作展になるなんて」。涙を湛え腫れあがった瞼の光代さんが語るには、個展は今さら中止できないが、買い手が決まり散り散りになるであろう夫の作品(光代さんは「子どもたち」と呼ぶ)を何とか留めておく術(すべ)はないか。混乱していた彼女に知人が写真集にして残すことを勧めてくれたのだという。とりあえあずアトリエの彩魚たちを夜遅くまでかかって撮影した。幸い過去の作品は、博之さんが自ら撮影したものがあり、作品集の大半はそれを使うことができた。
 博之さんの急逝を伝え聞いて、今でも彼のファンが日本全国からやってくる。その応対に追われながら、博之さん亡きあとの悲しみに耐え、諸々の整理をしながら、光代さんは遺作集の編集作業を続けた。それは作品を通して亡き博之さんと向かい合う毎日だったという。博之さんの製作過程に寄り添うように編み上げられた作品集は、ある意味夫婦の辿った年月の確認であり、それぞれの新しい一歩への道標でもあったように感じられた。その作品集『田畑博之作品集・彩魚』(南信州新聞社出版局)が一周忌を前に刊行された。作品集を手にした博之さんの母親は「こうして並べて見ると、作品ひとつひとつに、あの子の優しい面が出ていますね」と感想を口にした。
 本書はB5判上製本64ページ、オールカラー、本体価格3000円。作品が制作順に55点収載されている。300部の限定製作。お求めは、田畑光代さん(電話03・3766・1359)、田畑正男さん(電話0265・83・8295)、または平安堂各店や南信州新聞社でも扱っている。
 ちなみに博之さんの一周忌は11月2日の駒ヶ根市の虹のホール・グレースで執り行われる。一周忌を機に光代さんは宮田村の新居を引き払い、東京で新しい生活を始める。(2003.10.17)



 藤村「新生」と、その愛の行方
   『島崎こま子の「夜明け前」』(梅本浩志)を読む

 ヨーロッパ社会に広く知られた話に、「アベラールとエロイーズの物語」がある。聖職者にして哲学者のアベラールと恋人エロイーズの実話に基づいた愛情物語である。ヨーロッパ・ルネサンス期の象徴的な切ないエロス愛の物語は、ジルソンの『アベラールとエロイーズ』以来、ダンテやルソー、またトルストイやジッドといった作家たちに強い影響を与え、ヨーロッパ社会に深く刻み込まれていった。題名もダンテと同じ『新生』を著し、その中で「アベラールとエロイーズの物語」を紹介した、作家、島崎藤村もまたこの影響下にあった。
 藤村の『新生』(1918年)は、妻の実家からの借金で出した『破戒』(1906年)で世に出たものの、生活苦から3人の娘を病死させてしまい、さらに妻に先立たれ、残された3人の息子と生まれたばかりの四女を、次兄の姪たちが来て住み込んで育てるなかで、その姪の1人、こま子と関係が出来、妊娠させてしまい、その責任を負いきれず、文学修業と称して渡仏しまった作家自身を書いたセンセーショナルな小説だった。藤村は作品の中で年齢差のある姪のこま子との関係を、アベラールとエロイーズの物語になぞらえ、愛の純粋な姿を説いた。しかし、芥川龍之介をして「この主人公ほど老獪(ろうかい)な偽善者に出会ったことがない」(『或阿呆の一生』)と憤慨させるほど、スキャンダラスな作品と受け取られたこともまた事実であった。次兄とは絶縁、こま子は長兄のいる台湾に渡り、その関係も一応清算された。こうした曲折を経て、藤村は『夜明け前』の執筆に取り組むことになる。
 『夜明け前』は、日本に夜明けがくると信じて民衆のために身を粉にして活動した地方地主青山半蔵を通して維新の実体と日本の近代を問い直した作品。このモデルは、よく知られているように藤村の父、島崎正樹である。正樹は、維新に挫折・失望し、精神に変調を来したまま「わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ」と言い残し、この世を去るのだが、ある意味、理想社会への改革者としての生きざまを貫いた悲劇でもあった。
 本書、梅本浩志著『島崎こま子の「夜明け前」』は、『新生』以後の藤村とこま子、それぞれの生き方にアベラールとエロイーズの愛の在り方を見、また藤村への絶体愛を心に理想社会への改革者として生きたこま子に、時代こそ維新と戦中戦後という違いはあるが、もう一つの『夜明け前』、もう一人の実践者の姿を浮かび上がらせた。丹念にたどられたこま子の生涯は実に波乱に富んでいる。こま子の生涯の軌跡をたどるこの作品において、こま子を知れば知るほど、エロイーズの愛の世界の影響力と『夜明け前』執筆にいたる作家、藤村に向き合うことになる。藤村を「老獪な偽善者」と決めつけた芥川の言葉の呪縛(じゅばく)が解けて、一番驚いたのは著者ではなかったか、その驚きがよく伝わってくる。帯に「愛と感動のイストワール」とある。イストワールとはフランス語で、物語と歴史の両義を持っている。読みごたえのある1冊。
 本書は、四六判上製本350頁、本体価格2700円、社会評論社刊、お求めは書店まで。(2003.9.8)



 井原さん『裏町文庫閑話』出版


 飯田市役所の北の角、知久町3丁目に小さな古本屋がある。裏町文庫藤吾堂という。かつて日夏耿之介ばりの難解な詩を『橋』『信州文芸』などに発表していた井原修さん(56歳)が、1982年暮れに開業した古書肆である。このほど井原さんは、開業20周年を記念して、地元紙に連載中のコラム20篇と俳句を収録した『裏町文庫閑話』を出版した。
 30歳半ばから慣れぬ古本屋家業を始めた井原さんの失敗譚や記憶に残る話をまとめたエッセイは、出店のアドバイスをしてくれた直木賞作家になった出久根達郎や詩人北川透、また学生時代通った南湖書林の思い出、山本弘の絵を巡る話、矢高行路と飯田紳士たちなど、どれもが古き良き飯田町の残り香といったものが感じられ、もっと読みたい思いに駆られた。俳句は、中学生の頃「信毎俳壇賞」を受賞したことのある井原さんが、米寿を迎えた母親と一緒に再びひねり始めた近作58句を収録している。
 旅などで、はじめて訪れた町で少し時間がとれると、古本屋を探す癖(へき)がある。裏町の古本屋を探し当て、少し湿った埃っぽい匂いを鼻腔に感じつつ、本が天井まで積まれた薄暗い店内に足を踏み入れるときの、なんとも言えない期待感と緊張は捨てがたいものがある。一見同じようにしか見えない古本屋の棚は、実は店の主人そのものの個性が如実に現れていることが多い。自分自身をさらけ出し客を迎える気迫のようなものが、その店の雰囲気をつくっているのだ。店の敷居を跨ぐことは、店の奥ですでに客の姿を捉えているであろう店の主人の視線に、今度は客人自身が晒されることを意味した。そこはある意味、主人と客の個性の闘いの場であった。古本屋は町の文化度のバロメーターだといった人もいたが、最近は全国どこにいっても同じようなチェーン店がたいそうな勢いで蔓延(はびこ)り、かつての古本屋がどんどん消えている。加えてインターネットの普及で、欲しい本は机に座ったままでも検索できる時代になった。利益や経済的合理性を追い求めればそうなるのもいたしかたないのかもしれない。したがって、裏町文庫の仕事はそうしたところとは別の価値観が支えているのだと、その失敗譚など痛々しく読んだ。
 本書は四六判164ページ、本体価格1500円。お求めは、電話22-1646の裏町文庫・井原さんまで。(2003.9.17)


 松島貞治『「安心の村」は自律の村』(自治体研究社)

 著者の松島貞治さんとは、10年以上も前、会合に出席するための浜松を往復する車の中でご一緒し、中山間地の山村の在り方・人の暮らし方について、話をする機会があった。当時、松島さんは下伊那郡町村会職員の立場で、山村僻地の村が抱える過疎と超高齢化の問題を見据えながら、村人が村で生きることの意味を探っており、Iターンで伊那谷に居を構えたばかりの若造にも、その持論を熱っぽく語ってくれた。その後も、梨久保の槫木(くれき)祭りの折、村長選出馬の意向を伝えられたりと、泰阜村長になる以前から気になっていた人であった。
 村長になられてからも、仕事やいろいろな会合で何度かご一緒することがあった。その頃には、老人医療無料の福祉行政に取り組むなど、矢継ぎ早に従来の施策の転換を打ち出し、いかにも多忙のようであった。それらの施策が深刻な危機意識からでたものあることは早晩理解できたが。独自の村づくりの方向性がマスコミの注目を集め、テレビや新聞などの取り上げられるようになってからは、逆に、ゆっくり話をする機会もないままであった。高齢化率三八%を超える超高齢化の村で、村人がどう生きたいか、どう死んでいきたいかに正面から向き合い、現場でサポートしてきた。机上の論理や計画だけではない。彼の持論が、この十年の実践を背景に整理された形で、1冊の本になったことを喜びたい。
 泰阜村は隣村である南信濃村に直接通じる道もない村である。現在、大合唱で進められる合併が、これまでの例からも、示される数字からも、泰阜村と村人の生き方にとって、今以上によい方に向いているとは思われない。合併が、生き方の問題ではなく、経済の問題で進められていることに、松島さんは怒りを隠さない。自律を選べばより苦しい生活が待っているかもしれないが、それを承知のうえで、なおかつ、人としての尊厳という、より大切なものを守るために自律を選ばざるを得ない、という訴えは胸を打つ。何度か涙が出て本を閉じた。
 ある意味で、平成の大合併論議は、山村にとっては、経済と効率性を第一にかざした、多様な生き方や考え方の否定ともいっていいような横暴な論理で、便利さや贅沢(ぜいたく)に漬かった考えないブタを選ぶか、飢えたオオカミとなって孤立し滅んでいくか、といったような選択を迫っているような観さえある。身の飾りを殺(そ)ぎ落としてでも、住み慣れた村で「人間らしく死にたい」と願う人たちが多ければ、松島さんの提言する自律・安心の村という選択も捨ててはいけないはずだ。怒濤のような合併の流れの中にあって杭は杭であることさえ大変であると思う。いずれにせよ、今後十年から20年、事の成り行きを、しっかりとみておきたいと思う。
 本書に賞賛の拍手を送る人は多い。拍手するのは簡単だけれども、泰阜に限らずふるさとの村を捨てた自責の念を忘れるための苦い拍手の人も多かろうと思うのは、僻目(ひがめ)だろうか。一読をおすすめする。
 本書は、大阪市立大学法学部の加茂利男教授との共著。第一章の松島さんの自律の道をさぐる泰阜村からのメッセージを受けるかたちで、第二章に加茂さんの泰阜村をモデルにした小規模町村の未来像がスケッチされている。A5判106頁、本体価格1000円、自治体研究社。お求めは最寄りの書店で。(2003.8.20)


 藤原正彦「父の威厳」「古風堂々数学者」(講談社)

 最近は定期的に新刊案内をチェックすることもなくなった。だから、沖浦和光「幻の漂泊民・サンカ」(文芸春秋)など、これは、といった本は新聞の広告や書評、書店で目につけば多少高かろうがともかく購入する。けれども、ちょっと気にかかるが、話題になり、流行った本は、大量部数刷られるので、必ずと言っていいほど1年から2年もすれば「BOOK OFF」という本のリサイクルショップ(古書肆とはちょっと違う気がする)の棚に、半額、ときには100円で並ぶので、それを待って買うことにしている。新田次郎の次男で東大出の数学者の、この著者の本もそんな本の一冊。 お盆休みの山登りやキャンプの予定が颱風や雨でつぶれそうだったので、久しぶりに肩の凝らないものを読もうと求めてきた。奥さんとのやりとりや家庭内での位置づけなど、自己を戯画化・客観化させる表現など多少戯作者的表現は気になるものの、無批判なアメリカナイズ(経済的合理性第一主義)に、新渡戸稲造の「武士道」なぞ持ち出して「かたち」の美しさに、人間性や文化の無用の用を説いているあたりが同感できる。おそらく「父の威厳」が著者40歳代、「古風堂々〜」の方が50歳代のエッセイだが、後者の方がより直裁的な物言いになっているのは危機感のなせる業か、はたまた加齢のなせる業か。(2003.8.16)


 700頁に込められた郷土愛
  阿智村の原さん、『愛郷探史録』を出版

 
 阿智村春日の原隆夫さん(83歳)がこのほど阿智史学会機関誌「郷土史巡礼」に30年間にわたって寄稿した論考をまとめ『愛郷探史録』と題して出版した。原さんは、復員後一九五九年まで療養生活の後、阿智軽印刷を開業。阿智村教育委員、同村文化財委員、村誌編集委員などを務めるかたわら、「郷土史巡礼」の創刊・編集・印刷に携わった。「郷土史巡礼」は2001年330号で終刊となったが、原さんは、東山道を中心とした古代交通研究家として活躍してきた。著書に『探史の足あと』『園原の里』『文学碑巡り』などがある。
 本書は「郷土史巡礼」に寄稿した184編の論考から78編を選び、「アチとその地名」「東山道の研究」「阿智の神々」「寺と堂庵」「領主と住民」「江戸時代のくらし」「郷土の地誌」「史跡と石碑」「まぼろしの人々」「詩歌今むかし」「郷土史雑話」の十一章に分類、新説や加除訂正を加えて一冊にしたもの。「できるだけ伝承史学を見つめなおし、史料による実証的な考証に心がけてきた」と原さん自身「まえがき」で語るように、近世の支配が複雑で誤りの多い「伊奈郡郷村鑑」「伊那郡神社仏閣」等を史料批判するなど、「科学的な視野から郷土史を探ろう」としている。先に出版した『探史の足あと』が「郷土史巡礼」の口絵とその解説を中心にした阿智村歴史ガイドブックだったのに比べ、本書は、その背景にある史料を豊富に引用して、原さんの思考の過程がわかる論考になっている。また、家康の側室だったおせん・おまつのその後を辿った論考があるかと思えば、「吾道宮縁由(あちのみやえんゆう)」を読む、などの史料読みがあったりと、郷土を再発見する話題多数。『愛郷探史録』の表題が示すように、原さんの郷土に対する愛着がA5判上製本700頁に満ち充ちた大作である。
 本書は限定300部、本体価格3000円で希望者に頒布している。お問い合わせは、電話43-3838、FAX43-4709の原さんまで。(嶋)


 小泉武夫『発酵する夜』(新潮社)

 奥付を見ると、2002年6月とある。すると、この本はその年の8月1日の夜11時過ぎに、著者から直接いただた本と言うことになる。昨年の3月会社の検診でバリウムを飲んだら翌日担当医が飛んできて潰瘍があるから早急に胃カメラを呑めという。胃カメラには苦い記憶があって何年か意識的に呑むのを逃げてきたが、どうも今回はそうもいかないらしい。しょうがないので検査を受けると、医者はこともなげに「こりゃぁ、癌ですね」という。「あぁ、そうですか」なんというピントの定まらない会話。大きな病院でMRIだのCTスキャンだのの検査の末、私は癌患者になったのだった。「開腹手術にするか、内視鏡手術にするか」と相談されてもわからないから、いろいろな条件を勘案した上で担当医が良いと思う方を選んでほしいと言ったら、癌は大きいが内視鏡でやると言う。手術後、絶食から普通食への課程を縫合(と言ってもクリップで挟むらしいが)が解けたらしく、1週間で済むところもう1サイクルやり、5月の連休明けに退院した。その後も、家内の過度なまでの食事制限に耐え、ようやく酒も口に出来るか、という8月1日、見舞ってくれた人たちに対してお礼の意味を込めて「退院祝い」をした。久々の酒に、やっと娑婆へ生還した気持ちを味わい、ふらふらと店の外へ出ると、小泉教授がやはりふらふらと歩いていた。飯田発酵研究所がまだ立ち上がる前だったが何度か顔を合わせていたので、「おー、お〜」と言うことになり、ちょうど持っていた花束と交換にもらった本。  荒俣宏、東海林さだお、椎名誠、日高敏隆、立川談志、杉浦日向子など、好きな作家やタレントとの発酵食品をめぐる対談集なので、次の日には読んでしまった。さっき机廻りの本をかたづけていたら「浅草エノケン一座の嵐」(長坂秀佳)の下から出てきた。小泉教授に対する感謝の意と、ちょっとした記録の意味で書き記す次第。(2003.8.16)


 黛まどか『サランヘヨ 韓国に恋をして』(実業之日本社)

 俳人黛まどかさんがこの程『サランヘヨ 韓国に恋をして』(実業之日本社)を出版した。
 黛さんは、1994年『B面の夏』50句で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。女性だけの俳句結社『月刊ヘップバーン』代表として、新季語の提唱など俳句界に新風を吹き込んだほか、日韓文化交流会議委員、文化審議会委員なども務めている。1999年北スペイン・サンチャゴ巡礼道を踏破したのに続き、2001年8月から02年10月韓国釜山からソウルまでを徒歩で踏破し、その手記が「韓国俳句紀行」として読売新聞に連載された。本書はその連載をまとめ、1冊としたもの。1冊にまとめるにあたって、女優ユンソナとの対談を掲載、また翰林大学日本学研究所の池明觀が推薦文を寄せている。
 韓国と日本はよく「近くて遠い国」と呼ばれてきた。戦後半世紀が過ぎた今も、戦争の傷跡が両国の間に深い溝のように横たわっている。しかし、このさわやかな俳人は、自身の足で歩き、自身の目で見、肌で触れることによって、いとも簡単にその溝を越えた。それも難しい理論や思想を言うのではなく、新鮮な1句と1000字にも満たない軽妙なエッセイと写真で。ちなみに表題「サランヘヨ」は「I love you」の意。本書は、かの地で俳人に寄せられた多くの親切が語られている。
 推薦文を寄せた池明觀教授は、黛さんの中に俳人として旅を住処にする「風狂の精神」を認める一方で、柳宗悦(やなぎむねよし)、安倍能成(あべよししげ)、三好達治と韓国を愛した日本人の系譜を指摘する。つまり「(俳人が)触れあう人びとを愛するようになれば、その土地の自然も風習も何もかも愛するようになる。そして心はますます「浄化」される。それで俳人はあえて旅の「艱難」を選ぶ。その俳人に出会った人びとの心も暖まるのだ」と。呼応するように、本書の巻末には、黛さんが韓国の旅の途中、偶然一夜の宿をかりることになった夫婦が、日本の大学院に在学していた娘が日本人と結婚するというのを反対していたのだが、娘の結婚準備のために来日したという話題が語られる。その夫婦の言葉。「君たちは、初めて生で触れ合った日本人だったんだ。あの出会いによって、私も家内もようやく心の扉を開いたんだよ」。「開きおく地図の匂へる天の川」。新しい地図は自身で見つけなければならないと、読む者をして思わせる瞬間だ。
 本書は四六判上製本180頁。本体価格1700円。美しい言葉の溢れる、お薦めの一冊。是非、書店で手にとられたい。(2003.4.7)


 藤森栄一『古道』(講談社学術文庫)

 この正月に平安堂で求めたが奥付には「1999年5月1刷、2000年10月5刷」とあった。わずか1年半のうちに5刷というのは異例ではないだろうか。不安になって書棚の手近なところにある同文庫を十数冊繰ってみても、重刷があるものが言葉の辞書を含め数冊で、重刷も年1回あれば多い方で、半数以上の本が重刷されていない現状に比すれば、この本のすごさがわかろうというもの。読み始めて、すぐその理由が納得できる。文句なく面白いのだ。
 食物を拾いカモシカの跡を追ってあわよくばその肉にありつこうとする人の歩みがつくった「道」にはじまり、神の稲の壷を抱えて湿地を求める「道」…旧石器時代から中世にいたる「道」の成立とその道を通った一冊。「古道」を通った日本人の体臭さえ感じさせてくれる文献学と考古学の狭間をいくロマネスクな推論。彼の見る「古道」は柳田国男の「海上の道」に対するもう一つの原日本人論のように思えた。ちなみに、小生はこの本を読んで小生の寓居するこの伊那谷がおかれた位置を「古道」の中に認知できた。


 ラフカディオ・ハーン「新編 日本の面影」(角川ソフィア文庫)

 かつて「パパラギ」という本が話題になった。後進国から来た現地人の酋長がいわゆる「文明国」の人をみて、たとえば人間が手首に巻いた器械に操られている(時計)と喝破したような文明批評であったが、これは似て非なるものとでもいえばよいのか…少なくとも読む側にとっては同根のように思えた。
 小泉八雲の名で知られるラフカディオ・ハーンは100年以上も前の後進国日本に降り立った文明国の通信記者であった。その彼が、いままさに文明開化・先進国の文明の摂取に猛進する日本の既存の人と文化をこの上もなく貴重なものとして描き出す。唾棄し破棄すべき対象とされている習俗がそこでは失ってはならぬものとして描かれるのだ、これ如何に。100年前の警鐘を100年後に聞き、あたりを見渡したとき、彼の指摘があながち彼の懐古趣味や日本贔屓からだけのものではなく、人の生の有り様を問うていたことに気づく。もう遅いか…。

 「老い」を見つめて
  松澤太郎さん『草もみじ』を出版

 飯田市宮の前の松澤太郎さん(90歳)がこのほど随想集『草もみじ』を出版し、話題になっている。
 松澤さんは、1972年10月から88年まで4期16年にわたり飯田市の市長を務め、75歳で一線から退いた。市長在任中から健筆で知られていたが、その後も南信州新聞や読書団体の文集へ寄稿を続け、それらをまとめた『風越山の麓から』『野菜の花』『道草』『読書雑記』『そば談義』などの著書がある。
 今回の『草もみじ』は1998年7月から昨年12月まで南信州新聞に寄稿した108編を収載した。
 この間、松澤さんは突然の入院と3回の開腹手術を受け、前後2回通算6ヶ月の入院生活を送っている。術後は好きな畑仕事も制限され、野菜づくりの文章は減ったものの、迫り来る「老い」と「死」を見つめながらの思索が語られるようになった。超高齢化時代を迎えた今、そうした松澤さんの時々の思いが淡々と綴られたコラムを、自身の生と重ね合わせ、楽しみにしているという読者も数多い。
 本書は四六判上製本、374頁。私家版としてつくられ、知人友人に贈られたものなので、市販されていないが、図書館などで是非読んでほしい1冊だ。(2003.2)


 「いっこくもの」の人生論はいかが

 「あの平澤充人さん(60歳)が本を出版した」といっても、ピンとこない人が多いかも知れない。けれども、松川町の市民がだしている月刊雑誌『はこべ』の発行人であり、週刊「いいだ」のコラム新聞を書き、また松川町で「ムラを記録して後世に残す」聞書集を何年かおきに刊行し続けている人、といえば、思い当たる人も多いだろう。
 今回刊行された「いっこく りんご作り梨づくり」(創生社)という本から、平澤自身にもう少し自己紹介をさせよう。
 「私は農家の五男に生まれた。小学校に入学する直前、子供のなかった叔父夫婦のところにもらわれてきた」「小さいとき中耳炎になって、二歳、一五歳、三二歳と三回手術して右の耳は鼓膜がなくなっている」「五三歳のとき、鼓膜再生手術を受けて左だけは聴力が普通の人の六〇%に回復した」。農家の跡継ぎになってからのこと、「本を買う」といって父をだまし金をもらい、「不明7号」というりんごの苗を買い、たんぼに植えた。四年目にしてやっとこさ数個の実をつけたリンゴの中のいちばんいいものを、前立腺ガンでほとんど寝たきりになっていた父の床へもっていった。「いちばんいいのを食べてもらおうと思ったのだ。しかし父は『これは早く売れ。俺はキズモノでいい』といった。貧乏性が最後まで抜けない父が逝ったのはそれから二〇日ばかりしてからだった」。そんな思いがあるからか、「私に後継者がいないのは育てなかったからである」といい、さらに「あのまま五男の立場だったら、きっと都会へ出て大成功して?松坂慶子を妻にしているはずである」とまでいう。しかし、彼のつくるリンゴはうまい。施策に振り回されながらも、雑草のようにしぶとく土にしがみつき、決して百姓を捨ててはない。「私の最後は七七歳、と決めている。男性の平均寿命である。畑で長芋を掘っていてそのまま逝く予定である。長芋掘りは一メートルの深さに穴を掘る。土をかけてもらえば葬儀は簡単だ。土に還るのは百姓らしくていいではないか」と軽くいう。行間に、無骨な、しかし野太い生き方が伝わってくる。
 本書は「はこべ」や地元週刊紙に書いた文章を中心に、りんごと梨の栽培、地域活動、タイや北海道の旅行記、周辺雑記など八章で構成されている。本体価格1400円。地元の書店または「関西よつ葉連絡会」電話072・630・5610まで。(2002.12)


 伊那谷発信 スローライフのすすめ
  阿南町の伊豆さん「我らゆっくり夢農業」を出版

 バブルがはじけ砕ける前、東京郊外のマンションに住んでいた。近くに家庭菜園を借り、土に触れながら遠くの山並みを望んでいた頃、月に1度、信州の田舎で平飼いにした鶏の産んだという卵を同じマンションの住人から分けてもらっていた。近くのスパーで買ってきた卵は、割ると黄身が力なくペシャンコになったが、その卵は、黄身が立ち上がり、プルンプルンと踊っていた。十数年前、Iターンで飯田に移り住んで、その卵の生産者が阿南町富草に住んでいる伊豆光男さんだと知った。
 伊豆さんは、1950年、疎開先の群馬県に生まれ。横浜で育ち、石油プラントの建設を請け負う会社に勤めるエンジニアだった彼は、32歳で横浜に家を建てた。しかし、その頃読んだ福岡正信の「わら一本の改革」に共鳴し農家になる決心をする。同じ頃、奥さんの光枝さんと知り合い、信州小谷村に移住、その後、阿南町に落ち着き、鶏を飼い、卵の産直を始めた。
 東京で食べていた卵をつくっている人がいると知って、富草の「みたぼら」と呼ばれる狭隘(きょうあい)な谷間にある伊豆の家を訪ねたことがある。わずかな平地の休耕田を利用して2棟の鶏舎に600羽ほどの鶏が放し飼いにされており、伊豆さんは意外に強い春の陽を浴びながら黙々と飼料をつくっていたように思う。光枝さんの元気さに圧倒され、小谷村で生まれたという四歳の娘、阿南町で生まれた三歳の妹が、父親から離れなかったのが印象的だった。
 以来、月に2度ほど、わが家にも伊豆さんの卵と「みたぼら通信」という伊豆さん家族の生活レポートが届くようになった。それによれば、伊豆さんはヤギを飼い、鶏を守るためタヌキやキツネと戦い、自分を守るため農協や政治、時には女房と闘ってきた。ヤギの乳でパンやチーズをつくり、卵から卵油をつくった。時にはヒヨコやヤギの死にも出会わなければならなかった。また太陽熱オーブンを駆使し、糞便からメタンガスを抽出し利用しようと試みた。それは、都会人が土とともに生きるためにした試行錯誤がユーモラスかつ雄々しく描かれたドン・キホーテの手紙だった。裏返せば、現代社会の脆弱(ぜいじゃく)さ虚妄が見据えられた文明評でもあった。10年の間、ためておいた「みたぼら通信」は場所をとり、女房から処理を促されていた。その矢先、そのエッセンスがまとめられ、1冊の本「我らゆっくり夢農業」になった。一読を勧める次第である。
 本書は四六判294頁、本体価格1600円、川辺書林刊。お求めは、お近くの書店で。(2002.12)


 少年忍者と一緒に歴史の世界へ
  伊豆木の久保田さん、『ラッパマンの夢』出版

 飯田市伊豆木の久保田安正さん(72歳)がこのほど『ラッパマンの夢』(南信州新聞社刊)を出版した。
久保田さんは飯田市の小笠原書院に附設された資料館の管理人を務めるかたわら、これまで『信州伊豆木の里 小笠原屋敷ものがたり』『伊那谷物語』『伊那谷にこんなことが』(いずれも南信州新聞社刊)を出版、地域の歴史を掘り起こし広める活動をしてきた。
 このほど出版された『ラッパマンの夢』は、時空を自由に飛び回ることのできる少年忍者ラッパマンが、日本の歴史上の様々な出来事や人物を目撃して、読者に伝えるというもの。史実を踏まえながらも、教科書で学ぶ歴史とは一味違った視点から、逸話や伝説などを巧みに取り込んだ読み物になっている。
 話は、大化の改新から時代を下るかたちで大仏造営や源平合戦、本能寺の変、豊臣秀吉、天草四郎など学校でも学ぶ著名な出来事や人物を扱う他に、安部晴明や日蓮、石川五右衛門、山窩(さんか)など、なかなか教科書には取り上げられない歴史の陰の部分をも取り込んだ20話で、読み応えがある。久保田さんには「子どもたちに、おもしろく歴史を伝えたい」という教師時代からの思いがあり、この作品も数年来構想を練っていたが、ようやくかたちになった。「孫たちが心待ちにしてくれていたので、本当に嬉しい」と喜びを語った。
 本書は、A5判310頁、表紙及び挿し絵はアスキー社のゲーム攻略本「ウィザードリィ外伝」シリーズのキャラクターデザインを担当した諏訪市在住のイラストレーター松下徳昌さんが担当した。本体価格1500円で、飯田市内の平安堂各店で扱っている。(2002.10)


 飯田藩から近代史を見なおす試み
  喬木村の鈴川博さん『消された飯田藩と江戸幕府』を出版

 たかだか2万石の外様小藩であった飯田堀家が250年以上も続いた江戸幕府の政務の中枢にあって幕府を支え、しかも幕府崩壊後は、その台頭を危ぶむ勢力によってその痕跡を抹殺されていた…、というSF小説を思わせるストーリィーが読めてくるのは、菊判750頁を越える大著の半ばを過ぎたあたりからであろうか。豊富な地域史料をもとに描き出される飯田藩の実像は、外様小大名と幕藩体制の新たな関係を浮かび上がらせる。
 喬木村在住で、阿智中学校教頭の鈴川博さんが、このほど10年間にわたって「南信州」紙に連載したコラムをまとめ、『消された飯田藩と江戸幕府』を出版した。新聞連載時のタイトルは「消された江戸時代の実像\飯田藩から見た徳川支配」であった。この連載は現職教師の鈴川さんが内地留学で学んだ上越教育大学大学院に提出した修士論文「外様小藩の成立と展開過程〜堀飯田藩を中心に」がベースになっており、本書の1章から3章が論文の内容にあたる。しかし前上越教育大学学長の加藤章教授が序文で記しているように、新聞連載にあたって大幅な再検討が加えられるとともに論文調から歴史解説にスタイルが変更され、さらに4章と5章では修士論文では盛り込めなかった飯田堀家の経済基盤や特色にも言及した。
 加藤教授の言葉をかりれば「これまでの研究成果に基づき刊行された各種の史料集を渉猟し、飯田藩から近代史を見通すという鈴川さんの史眼と問題意識」がより鮮明になっており、また「これまでの概説や県史・市町村史とはまったくちがった本当の市民の歴史感覚に応えるユニークな歴史書」である。
 地域史が本当の日本の歴史をつくるとしたら、まさにその1歩が刻まれた希有な一書を私たちは手にした。
 本書は、菊判上製本750頁、本体価格4000円。お求めは飯田市内の平安堂各店で。(2002.9)


 シリーズ完結 宮崎学さんのアニマル・アイを読む

 動物写真家の宮崎学さん(52歳)の「Animal's Eyes 動物の目で環境をみるシリーズ」全5巻が完結した。第1巻「ごちそう砦(とりで)」、第2巻「死を食べる」、第3巻「明るい夜」、第4巻「あったか ねぐら」、第5巻「においの地図」がそれだ。「ごちそうの砦」はゴミ捨て場にあつまる鳥や獣たちの姿が映し出される。人間が出すゴミを喰らう動物たちの生き方の変化もそうだが、その種々のゴミの山に唖然とさせられる。また「明るい夜」では眠らない現代社会の光のもとに息づく動物の暮らしを、「あったか ねぐら」では都会の用水路の中に暮らすティラピアが薄く濁った水中から撮影されている。人間が変えてきた自然と、それに適合して生きて行かざるを得ない動物たちの姿が淡々と写し取られている。
 載せられた写真はなかなか意識することのない隣の風景であり、添えられた宮崎さんの言葉は事実を伝えて的確である。ビニールを織り込んだヒヨドリの巣、クマの糞にはたばこのフィルター、電話ボックスの灯りに集まる虫を食べ続けるカエル、狩りをせずゴミが運ばれてくるのを待つトビの群、どれもこれも昔話の中にある動物たちの姿とは程遠い。その向こうに、未来への警鐘を聴くのは筆者ばかりではあるまい。各巻のタイトルもすなわち反語だ。自然界の動物の暮らしを通して現代社会を裏返した希有な写真集だ。大人も是非読んでほしい1冊。
 本書はA4変形判、各巻とも36頁、上製本。本体価格1800円、偕成社刊。本は最寄りの書店まで。また宮崎さんのホームページ(http://www.owlet.net/)からでも買える。(2002.4)


 魂の在処を問う写真

 宮島功さんの『雑木林』出版

 1999年1月から翌年12月まで48回にわたって南信州新聞に連載された写真グラビア「宮島功・伊那谷を撮る」シリーズがこの程写真集『雑木林』としてまとまり出版された。
 宮島功さん(61歳)は1940年飯田市久米に生まれ、40歳を過ぎてカメラに出会った。その後、各種コンテストに入賞、96年にはアマチュア写真家の登龍門である酒田市土門拳写真文化賞、98年には飯田市の藤本四八文化賞を受賞した。南信州新聞に最終面1面に2年にわたり連載した「伊那谷を撮る」は連載開始時から単行本化の声があがっていたが、このほど掲載写真に、未発表の写真16点を加えて写真集の上梓となった。
 美しい写真は精巧なカメラと多少のテクニックがあれば誰にでも撮れる。しかし宮島さんの写真は誰でもが撮れる写真ではない。切り取られた伊那谷の美しい風景に、自然に対峙する表現者の視線が、また、その視線から逆に浮かび上がる表現者の生きざまが封じ込められているのを感じる。写し撮ったのではない。表現者の屈折した「生」が塗り込められているのだ。見る者は、改めて自身の魂の在処(ありか)を自身に問いかけなければならなくなる。宮島さんの写真は、見る者をしてそんなことを考えさせてくれる。アマチュア写真家のみならず「表現」ということに向き合っている人すべてにお奨めの1冊だ。
 本書は、B5判104頁、南信州新聞社出版局刊。本体価格3000円。最寄りの書店で扱っている。(2000.9)


 郷土の感情掘り起こす 『郷土人物講談12話』発刊

 飯田市川路出身で埼玉県川口市在住のフリーライター牧内雪彦さん(70歳)の『信州飯田郷土人物講談12話』がこのほど出版された。
 牧内さんは旧制飯田中学の卒業。飯田下伊那の歴史上の人物を中心にした講談の台本を執筆し、飯田高校同期卒業の仲間たちでつくる四七会の後援で講談師神田紅・ひまわり師弟とともに年1回のペースで飯田で講談の会を催している。毎年楽しみにしている市民も多く、6月2日に飯田市公民館で昼夜2回開かれた会も盛況であった。
 このほどまとまった本は前著『郷土講談全十帖』に続く、講談物としては2冊目。「薄井龍之と水戸浪士」「西郷孤月と菱田春草」「峯高寺縁起・福姫絵姿」「市丸純情恋しぐれ」「戦没画学生・市瀬文夫」など五年間に書き溜め、神田師弟が語った飯田下伊那ゆかりの人物を中心に12篇が収載されている。
 いずれの作品にも、史的裏付けはもちろんだが、人物にまつわる逸話を掘り起こし、そこに流れる時代や庶民の感情を読みとろうとする著者の企みが感じられる。日々刻々と移りゆく時代の中で、郷土の歴史の中に埋もれかけたこうした感情を掘り起こす試みは、ある意味で優れた時代風刺にも通じている。
 先日の講談でも神田紅が「男装の麗人・川島芳子」を語り終えようとする際、アドリブで数回「大日本帝国、万歳!」と叫んだ。その時、会場の片隅で目頭を押さえる元軍人とおぼしき老人がいたが、牧内さんは彼の内に蘇っている感情こそ尊いものだと確信すると語ってくれた。
 「大日本帝国」という言葉は、戦後教育のなかで蛇蝎の如く嫌われ死語と化しているが、言葉を消すことで、その言葉に死と向き合った純粋な魂まで消すことはできないのだと今さらながら思い至った。
 A5判256頁、本体価格1500円、南信州新聞社出版局刊。装幀・挿絵は四七会の仲間でグラフックデザイナーの永井郁(東京在住)が担当した。本書のお求めは、お近くの書店または南信州新聞まで。(嶋)


 少女のほほえみと、したたかな社会眼
  上郷の北原きぬさん『もんぺは「魔女のホウキ」』出版

 飯田市上郷黒田の北原きぬさん(90歳)が『もんぺは「魔女のホウキ」』を出版し話題になっている。
 大鹿村に生まれたきぬさんは、昭和6年19歳の時、上郷の農家北原亀二さんのもとに嫁いだ。篤農家の舅姑と、後年上郷村長を務める政治に情熱を燃やす亀二との間で、嫁として生きたきぬさんの投書「蚕によせて」が全国紙に掲載されたのが、昭和28年6月、きぬさん40歳のこと。以来「もう一人の自分が、新聞の中で自由に生きている感じがした」と本人がいうように、きぬさんは自分の居場所を見つけた。随筆から意見、短歌、俳句、川柳にいたるまで新聞に投稿を続けた。「槙 純江」のペンネームをご記憶のむきもあるかも知れない。「没書でも選者お一人読者なり」というから、脱帽するしかない。 
 卒寿を機に、50年間の投稿類約90篇と俳句・川柳など100首を1冊にまとめた。「あとがき」によれば、編集に当たったのは孫娘夫婦とある。
 著者は明治44年生まれというから、昭和32年4月『農業朝日』紙に掲載された「背に運ぶ飼料の俵いつもより軽しと思う地下足袋あたらしく」という歌が50歳前、平成5年の「使いよさそなノートに夢も買ってくる」(『朝日新聞長野版』)が80歳を超えた頃、平成11年の「ほほえみの顔写すとき鏡好き」が米寿を迎えた頃の短歌であろう。歌われる景色は時代と共に移り変わっているが、プラス志向の喜びの感性はこの著者の天性のものであろう。とても卒寿を迎えた人とは思えない、少女の如き初々しい心模様である。その一方で、自らを「角のない牛」に擬する著者の定点から見ると社会や世の中はどのように映るかと、興味半分頁を繰ると、読むこちら側の足元が実に危ういのだと気づかされ、逆に慄然とする。少女のような視線の裏側に社会を見つめる冷徹な視線のあることを紙背に感じる。明治・大正・昭和・平成を生き抜いてきたしたたかな知性を感じる1冊である。
 本書はA5判変形上製本216頁、私家版として200部印刷し知人に配ったが残部が多少ある。本書についての問い合わせは、23-0874の北原さんまで。(2001.5)


 情報の送り手の責任を問う一冊 『検証・松本サリン事件報道』の迫力

 その事件は、長野県から生まれた初の総理大臣羽田孜の退陣から2日後、その余韻いまだ消えやらぬ1994年6月27日午後11時過ぎに起こった。「松本でガス漏れ事故らしい」という連絡が、深夜の取材を経て「三九人が病院に運ばれ、六人が亡くなった模様です」というテレビ信州の現場から第1報。そして「第一通報者」の呼称ではあるが河野義行さんが限りなくクロに近い人物に仕立て上げられ、17時間後には被疑者不詳ながら殺人容疑で家宅捜査を受けるにいたる。いわゆる松本サリン事件の発生直後の状況。
 事件は、1年後になって、松本支部建設工事をめぐり反対する地元住民との間で訴訟合戦を繰り返していたオウム真理教が長野地方裁判所松本支部を目標にサリンを噴霧、裁判官はじめ反対派など付近住民の殺害を企てたものと判明する。オウム真理教が引き起こした一連の事件の恐怖もさることながら、この松本サリン事件では、テレビ信州を始めとする報道が生んだ冤罪(えんざい)の側面があり、改めて報道するの報道責任という重い問いかけがなされた。
 当時の報道は、何を伝え、何を伝えなかったのか。テレビ信州報道スタッフが書き下ろした「報道する側の真実」の記録が1冊にまとまった。公開中の映画「日本の黒い夏」の現場からの生の声ともいうべき一書で、メディアという権力の功罪と魅力を拘わるスタッフの苦悩の中に描き出している。特別寄稿として河野さんも一文を寄せている。近年話題になることの多いメディア・リテラシー(Media Literacy)を送り手の側から問うた1冊として一読をお勧めする。
 本書は四六判256頁、龍鳳書房刊、本体価格1429円。お求めはお近くの書店で。(2001.3)


 過疎の祭りはどうなるのか 『花祭りのむら』

 須藤功(すとう・いさお)という人の書いた「花祭りのむら」という本が送られてきた。帯に「伝統の灯は消えてしまうのだろうか」とキャッチコピーがあり、奥三河の伝統芸能「花祭り」の灯を守る努力をかさねる人々の姿が描かれているとある。
 寡聞にして須藤功なる人を知らない。奥付にある他の著書をたよりに少し調べてみると、須藤は宮本常一の弟子にあたることがわかった。須藤は日本観光文化研究所所長をしていた宮本に直接学ぶべく、昭和42年に自衛隊浜松基地勤務を辞め、住居を豊橋から川口に移してここの所員となつた。以後、宮本の指導を受けつつ、奥三河等に通つてフィールドワークを続け、今回の本をものした。
 「花祭りのむら」は3部からなる。「月へ 昭和三十八年」「山の祭り 昭和四十二年」「東京の少年 昭和五十七年」である。「月」「山」が北設楽郡東栄町月の花祭を、「東京」が同じく東栄町御園の花祭を扱つている。「月」と「山」は須藤氏の花祭初体験と、花宿がまだ民家であつた時代。「月」の昭和38年は東京オリンピックの前年、所謂高度成長期の直前である。この時期、祭りの日程が土日に、花宿が民家から集会所等に集中してゆく。最後の花宿が民家の花祭は東栄町月であったという。須藤氏はその準備段階から終わりまで通して記録している。今となっては貴重な記録である。以後、昭和48年に花の舞に女児が出たのを初めとして、女人禁制もまた緩んでいく。つまり、この2つの章で、月の花祭の劇的な変化を知ることができる。
 第3章の「東京の少年」はもちろんこの「地区外の人たち」に入る。須藤氏は「東京のグループの、希望を広げるこれからの進展」と書いている。花祭が過疎を乗り越えて行けるかどうか。そのためにはいかにすべきか。「東京の少年」の存在が1つのヒントになるというのである。昭和57年当時2歳前であつたといふ幼児も、現在成人しているかいないか、今年も御園の花祭に出ていたのであろう。須藤氏はかういう変化をも見逃さずに花祭を眺めてきたのだ。
 過疎は奥三河だけの問題ではない。山襞に数多くの祭りを抱えた伊那谷の問題でもある。それをいかに解決するのか。現時点での妙案はない。ある人から「後藤総一郎の『遠山物語』以来の感動を味わった」という感想を聞いた。本書は約360頁、本体価格1600円。対象は中学生以上、写真も多く、ほとんどの漢字にルビがつき、大きめの活字で組まれている。福音館書店という児童書中心の出版社から出されたが、ひとり子どもの本として紹介するには惜しい。是非とも伊那谷の人たちに読んでもらいたい書である。(2001.2)


 ゆらり ノスタルジィー
 喬木村教育委員会『竜東索道〜盛衰とその時代〜』を出版

 
 この程、喬木村教育委員会が索道の記録集『竜東索道』をまとめた。竜東索道は竜東索道株式会社によって大正8年に計画され、同12年に竣工、昭和16年には経営不振により、その短い歴史を閉じたが、人々に忘れがたい印象を残したようだ。
 索道(さくどう)と聞いてもピンとこない人も多いに違いない。広辞苑によれば「架空した索条に搬器をつるして人または物を運搬する設備」とある。鉄道と自動車による輸送手段が未だ整わなかった頃、山奥の森林資源を運び出し、また山深い集落に生活物資を輸送したロープウェーである。飯田下伊那にも大正期、飯田・水留野間を結んだ飯田索道、松川町上片桐・生田間にあった部奈索道、大鹿村にあった伊那商事索道、そして喬木村小川・上村程野間を結んだ竜東索道が相次いで架設された。森林資源の需要とともに架設され、交通網の整備で次第にその姿を消したが、険阻な山々をゆらりゆらりとのどやかに越えていく様はなにか心をうきうきさせるものがあった。
 本書は、聞き書きとそれに基づいた描画、貴重な写真とともに忘れられていく索道そのものの歴史的意義を、当時の谷の人々の暮らしを辿ることによって記録しようと試みた希有な記録集である。第1章「小川路峠越えの時代」、第2章「遠山谷・山の仕事」は索道以前の人々の暮らしと信仰が描かれる。また第3章「竜東索道」、第4章「索道輸送とその情景」、第5章「索道の消長」では、絶妙の挿し絵ととも、索道架設によって変わっていく谷間の生活がに描かれている。あの『日本百名山』の作家深田久弥もハラハラしながら搬器にしがみついて矢筈峠を越して喬木村小川渡から光岳を目指したという。第六章は索道がなくなったあとの「赤石林道と三円南信自動車道」建設の経緯が語られる。どの頁も写真と描画を中心に読みやすいものとなっている。往時を知っている人にとっては限りなくノスタルジィーを掻き立てられる1冊である。
 本はA4判110頁、頒価1500円。お求め・お問い合わせは喬木村教育委員会、33-2002まで。(1999.1)


 『ユリ 日系二世NYハーレムに生きる』を出版

 ニューヨークに住み、「ハーレムの母」と慕われる日系2世の女性がいる。公民権運動をとおしてマルコムXとも親交を結んだユリと呼ばれるこの女性はユリ・コウチヤマといい、現在七十六歳になる。この程彼女の自伝『ユリ 日系2世NYハーレムに生きる』が刊行され話題を呼んでいる。本書は、彼女の生き方に感銘を受けたフリーライター中澤まゆみさん(四九歳)が、年に1、2度ハーレムの彼女の自宅に1ヶ月ずつ同居しながら3年間かけて取材、その生涯を1人称で書き記した自伝である。
 著者の中澤さんは飯田高校出身で、長野県短期大学を卒業した後、雑誌編集者を経てフリーとなる。ヨーロッパとアメリカを放浪した折、ユリに出会った。中澤さんには『二十七歳自分さがし』『三十九歳まだまだ自分さがし』『四十九歳もう一度自分さがし』(いずれも共著・東京書籍)などの著書がある。
 本書『ユリ』は、人物インタビューやルポルタージュを得意とする彼女らしい文体なのだろう、膨大な資料を背景にフットワークの効いた切り込み鋭い文章と、そこに浮かびあがる当時のアメリカとユリの動きがまるでドキュメント映画のナレーションを聞いているかのように息もつかせぬ迫力を以て迫ってくる。ユリの生涯を縦糸に、移民成功者としてアメリカ中流社会に暮らした少女期、「自分はアメリカ人」という意識を持ちながら日露戦争から太平洋戦争と戦後にかけて日系人として対せざるを得なかった青年期のアメリカ社会・さらには戦後結婚してハーレムに移り住み反戦運動や公民権運動を通してマルコムXと親交を結び、また彼の暗殺の場に居合わせるなどの数奇な体験を横糸に、時代の荒波に翻弄されながらも人間に対する誠意と信頼を決して失わないユリのヒューマニズムに満ちた生き方の重みがひしひしと伝わってくる。
 本書は四六判上製本280頁、本体価格1762円、文芸春秋刊。お求めは最寄りの書店へ。(1998.12)


 6冊目の随筆集『道草』を出版

 飯田市宮の前の前市長松澤太郎さんがこのほど随筆集『道草』を出版した。
 その「あとがき」が奮っている。先年101歳で亡くなった近代洋画壇の巨匠曽宮一念の、96歳の時の著述から「馬肥ゆる秋なればこそ老いてなお野の道草を食い歩きたし」「長々とまずい道草食い過ぎて足腰痛む冥の入口」の短歌を引用し、次のように述べる。「この曽宮一念に比すべくもないが、自分自身つくづくまずい道草を食ってきたとの思いが強い。そして、いつまで食い続けるのかとの疑念もある」と、著者にとって6冊目の随筆集の題が『道草』となった所以を語る。
 『道草』は、平成6年3月から平成10年6月までの間に南信州新聞に寄稿したエッセイ105篇をまとめたもの。作品は、家庭菜園を中心とた季節感溢れるもの、日々の生活の中から生まれたもの、時事的な発言、とそれぞれ内容から氤。の三部門に分けられ、部門での配列は新聞掲載順になっている。二畝(贋)百姓を自称する松澤さんの、土と遊びながら自然と対話している姿に心和むものを感じ、また、社会と老人の関係、老人の生き甲斐といった最近の「老人の生」に関する新聞紙上での言及を心待ちにしている読者も多い。
 松澤さんには平成元年から平成5年6月まで新聞掲載エッセイをまとめた『野菜の花』(平成6年の私家版、後に平成7年南信州新聞社再版販売中)がある。通算するとほぼ10年間にわたって書き継がれた計算になる。400字詰原稿用紙4枚から5枚、月2回、しかし10年間にわたる記録は、こうしてまとめて読んでみると、改めてその仕事の大きさに感動する。同じ「あとがき」で松澤さんは「丁度家畜が、草を食みながらポタリポタリと後ろへ糞を落としていくように、振り返ってみると、なにやら駄文だか拙文を残してきた。どんなにまずくたわいないものでも、身から出たものとあらば、捨てるに忍びず一応拾い集めてみたというほどのもの」という。様々に読みとれる一文ではある。今は道に落ちている糞を拾い集める人もいないが、糞も肥料になる。国によっては乾燥させて壁材にしたり、燃料にしたりもする。糞も使い方次第で有用なのだ、というと著者の二ヤリとする顔が目に見えるようだ。
 本書は四六判上製本380頁。『野菜の花』と同じデザインで色違いの装幀になっている。非売品。(1998.11)