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 書くことの、あとさき         

2003.4.13 飯田市立中央図書館 文章講座講演原稿


 1 はじめに
 2 男性諸君、もっと書こう
 3 どう残すか、なぜ残すか
 4 柳田邦男さんの講演から〜物語の完結
 5 ふるさと大使の遺書
 6 心なき言葉のむなしさ
 7 第一の読者を想定せよ
 8 おわりに

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 1 はじめに
 こんにちは。南信州新聞社の小田嶋です。
 今、ご紹介にあずかりましたように、文章講座の皆さんとは、小原謙一先生ご存命中に、同窓会の文集「くらしの中から」の第十二集の印刷を承って以来のおつきあいで、最近では、同窓会長のお骨折りで、「暮らしのたより」というコラムを、南信州新聞に連載させていただいているわけで、その窓口ということになっています。ただ、ここにおいでの皆さんとは、そうした場以外にも、色々な活動を通して、お世話になっている方々ばかりで、本来であれば、わたしがそちらの席に座って、みなさんがこちらでお話してくださるのを承りたいくらいですが、同窓会長から「今日は、どうしても他の方が都合がつかないからお前が一時間半、なにか話せ!」と、あの独特の声でお申し付けがあり…、どうしても、あの声には逆らえないものですから、本日ここにいる次第です。御退屈でしょうが、どうぞ、少しばかりお付き合いくださいますようお願いいたします。
 また本日のテーマですが、「書くことの、あとさき」としました。これも一月ほど前、同窓会長から会員に通知を出すから仮題でもいいから、「なにか出せ!」とお達しがあり、苦し紛れに捻出したテーマですので、多少ズレるかもしれませんが、お許しください。

 さて、ご存じの皆さんもおられるかもしれませんが、自己紹介させていただきますと、…小田嶋なぞという苗字は当地方には珍しく、飯田下伊那の電話帳では、おそらくまだわたしのところ一軒ではないかと思います。すなわち、わたしは、ここらでいう所謂「旅の人」で、出身は秋田県の横手市というところで、家内も兵庫県の出ですから、もともとこちらの人間ではありません。出がけに家内に確認したところによれば、平成三年三月といいますから、今から十二年ほど前に当地にIターンし、縁あって南信州新聞で出版部門を担当して十年以上になりました。
 南信州新聞では、毎日の新聞発行以外にも、出版や印刷の部門があって、JAの広報誌や郷土誌「伊那」などの月刊誌を印刷している他に、公民官報やPTAの新聞、また企業や団体の記念誌や自分史、短歌や俳句の句集、それから「くらしの中から」のような文集の印刷、また定価をつけて書店において販売する企画出版物の発行、それから「椋鳩十記念伊那谷童話大賞」など地域おこしのコンテストなども手掛けております。新聞が本業ですので、出版のラインは細く、月に三冊の印刷物を発行する程度のものですが、それでも十年間やっていると年に三十種類として、すくなくともこれまで三百冊以上のいろいろな本を世に送り出してきたことになります。もちろん、この三百冊にはみなさんの「くらしの中から」の十二集以降の十冊も含まれているわけです。
 さて、そのような仕事をしている関係…、つまり、本をつくるにあたり、様々な書く現場に立ち会い、色々なことを見聞きするのですが、そうしたことを通して感じたこと、考えたことを最初にお話したいと思います。

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 2 男性諸君、もっと書こう
 文章講座同窓会には男性も多くおられ、そのこと自体は大変喜ばしいことなのですが、一般的に周囲を見回しますと、物を書く男性が少なすぎると思うのですが、いかがでしょう。
 たとえば、よく「亡くなった母の短歌集を一周忌までにまとめたい」などという相談を受けるのですが、お宅にうかがってお話を聞いてみると、母親が地域の短歌会や、時には「あららぎ」「ヒムロ」などといった同人誌に折々短歌を出していて、死後あらためて整理しながら遺された歌を読んでいたら母親の気持ちが伝わってきて涙が出てきた。まとめて持っていたい。母親の生きた証として、本を出版して、また知人や親戚に配りたい、というのですね。母親が生前、短歌をやっていることは知っていても「我関せず」だった子どもたちが、母親の死後、あるいは短歌集をまとめる段になって、はじめて母の短歌を目にするのです。
 …わたしは短歌を勉強した者ではありませんので、歌の善し悪しはわかりません。けれども、一応、文字は読めるし、何が書いてあるかもわかります。そのレベルでの発言なので短歌を学んでいる人には違った意見もあるかもしれませんが、あの短歌というものは文学表現であると同時に、すぐれて簡潔明瞭な事実の記録でもあるんですね。
 …歳とって亡くなった母親が初めて母となった日の歌、子どもたちの成長を見守る眼差し、舅姑に気兼ねしながら生きている様、息子や娘が大学や就職あるいは結婚して家を離れる淋しさ、旅行したときの無邪気さ、舅や姑を看取ったときの気持ち、孫の誕生を喜び、娘たちの里帰り、夫の病を気遣う気持ち、肉親や友人を喪ったときの歌、などなどが、時々の気持ちとともに詠み込まれている、…そうした母親の女性としての生き方を、短歌を通してはじめて眼前に突きつけられるのです。子どもたちにとって、母親は、自分が生まれたときから母親であったし、死ぬまで母親でしかなかった、強いてそうとしか見ようとしなかった…けれども、残された歌を通して、その時々の母の思いを文字を通して見る時、すでに父や母になった息子や娘には、母親が母親である前に一人の人間、喜怒哀楽の狭間に揺れる一人の女性としての母親が確かにいたことを、特に、息子などは愕然として悟るんですね。それは何も残そうとして詠んだ歌ではなく、結果として残ったものなのですが、そして、はたから見ていてそんなにすばらしい短歌とは思えない歌に、息子だけ、あるいは娘だけは感じられる母の眼差し・息づかい・体臭・ぬくもり…があるのです。それは文学表現以前の、人間と言葉の原初的な関係を思わせる言葉の力なのだと思います。言語の「言」と霊魂の「霊」と書いて言霊(ことだま)と読みますが、まさに言霊を感じるのです。
 …といって、皆さんに短歌をやりましょうと勧めているわけではありません。亡くなった母親の遺した短歌(みそひともじ)、わずか三十一文字の中にさえ、そうした思いを封じ込め、タイムカプセルのようにこの世のどこかに仕掛けておくことができるのだということを知っておきたいと思うのです。
 …そのとき、ふっと気になって、仏壇を見てみると、母親の位牌にならんで父親の位牌もあるんですね。話を聞いてみると、父親も数年前亡くなっているのです。どこかの会社の役員だったりするんですが、「仕事ばかりの人で…」などと言われて、遺るのは写真ばかり。特に、戦中から戦後復興、高度経済成長期に社会や地域を支えた世代は、子どもたちも、その背中ばかりみて育ち、あまり思い出も持ち合わせていなかったりする。そして、ものを書いていない。男性として、社会人として、また地域に生きる一人の人間として、何を見、何を考えていたのか。家や家族をどう思っていたのか、知る術がない。家長を中心に、家族がみんなで田畑に出て一緒になって働き、朝昼晩の食膳を囲んだ戦前とちがい、戦後は近代化の名の下に労働力と化した男性が次々と会社や工場の歯車として、家族や家から離されていく。そして三代四代が大家族で暮らしてきた家が核家族化で崩壊、炉端で語り継がれ、受け継がれてきた「家の歴史」が、分断され途切れた。それらは、一面で、わたしたち自身が望んだものであったことは事実だけれども、とりもなおさず、語り継がれ、見て受け継がれてきた「家の歴史」の命脈を断ったこともまた事実のような気がします。すなわち、自身が語らずとも生活そのものが語ってくれた、その末端に自身も連なっている「家の歴史」が、そうした生活様式の変化とともに死に絶え、自身が語る以外に、残す術がなくなった、…今の自分史ブームをわたしはそのように見ています。
 話が横道に逸れてしまいましたが、…こうして父親の存在は、母親の歌集の、母親と一緒に写ったの幾枚かにわずかにみられるだけになってしまう…。これが、今の世の、大方の男性の生きた証の残り方で、それも、孝行な子どもたちが、たまたま本でもつくってあげよう言ってくれた場合で、大方の場合は、めったに開くことないアルバムの片隅で朽ちていくか、あるいは古い家の奥の仏間に立派な額に入れて飾ってあってもあっても、何代か代が替わったり、あるいは新築に際して、物置に仕舞われ、ついにはどこかに行ってしまうのです。しかし、生きることに忙しい子どもたちはそこまで気がつかないケースも多く、それを責めることは、わたしたちにはできません。
 冒頭に「文章講座同窓会には男性も多くおられ、そのこと自体は大変喜ばしいこと」と申し上げたのは、つまり、縷々述べたように物を書かない世の男性が多い中で、文章講座同窓生は物を書ける稀有な男性諸氏であるとの意味であります。書くことは、意図するとしないとにかかわらず、自身の生き様の記録ですから、その点で、一面ではあるにせよ、また三十一文字に頼らずとも、子どもたちや、自分に興味を持ってくれた後世の人が望みさえすれば、自身の書き残したものを、それは「くらしの中から」や各期でつくっておられる「文集」にせよ、あるいは一冊の本にまとまったものにせよ、また原稿そのものにせよ、読むことが出来さえすれば、その度に書き記した言葉が、読み手に語りかけるであろうことを、「喜ばしい」と思う次第です。「だから本をつくりましょう」といっているわけではありませんので、これも誤解のなきようにお願いいたします。そうした意図でお話しているのではないということは、追々わかっていただけると思うのですが、…。

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 3 どう残すか、なぜ残すか
 話の流れで、残された文章の話になってしまいました。テーマを「書くことの、あとさき」としたせいでもないのですが、書くことの「さき」に話を移す前に、書いてしまった文章のその後、すなわち「あと」の方を先に話しているわけですが、ついでにもう一つ二つ、「あと」の話をしておきたいと思います。
 宇宙の歴史五十億年、地球の歴史四十億年に比べれば、人類の歴史はたかだか二万年。さらに私どもが辿ることのできる先祖の歴史は、皇族などのごく稀な人たちをのぞけば、たかだか十代や二十代そこら、せいぜい百年や二百年ではないでしょうか。皇族の先祖を辿ることができるのも、日本書紀はじめ様々な書き記されたものがあったからなのですが、逆に、その一族なり民族の歴史や存在を抹殺するには一族を皆殺しにして、書いてある文書を焼けばよかった時代があった。中国の焚書坑儒の例を引くまでもなく、日本でも中国でも、世界の国々の歴史の中に度々見られるのは、ある民族を征服して権力を握ったものが真っ先にしたことは、滅ぼした民族の思想・文化を継承する書かれたものの抹殺、そして己が正統であることの歴史の記述でした。不幸にして、文字が一部の人のものだった時代には、その文字を操れる人、歴史の記述が出来る人にまで弾圧が及んだのも、残念ではありますが、致し方ないことだったのかもしれません。これは近代になっても、言論の抑圧、思想弾圧という形で続きました。
 今の日本は、幸いにも、多くの人が文字を自由に操ることができ、新聞や雑誌の投書、研究報告書やエッセイ集の出版、あるいは最近ではインターネットのホームページやメール・マガジンを使って、誰でも自由に自分の思想信条を主張することができる環境が整ってきています。まあ、「できる環境がある」ということが、そのまま「できる」ということには繋がらないのですが、みなさんが体験したことのある一時期の社会や、今のイラクや北朝鮮の国民のおかれた立場からすれば、言論の自由という点で、誰でも望みさえすれば、「できる環境」にあると思うのです…。
 たとえば第二次戦争下の日本軍による「南京大虐殺」。これは従来の国のつくった教科書では「ない」ことになっていました。少なくとも「あった」と教えては来ませんでした。昔だったら、いくら中国の教科書で日本の大虐殺が糾弾されようが、日本にはそんな事実はあり得ない、で通っていたのだろうけれども、兵隊にいった人々が自身の体験を語り、文字に残すようになって、国のいう歴史とは別に庶民の体験として虐殺の事実が記録されるようになると、国もそうそう無視できなくなって、一部の教科書には取り上げられるようになった。ここ二・三十年の間に、そうした視点から、日本の中世以降の歴史は大きく見直されています。つまり、従来の歴史観には当てはまらず、資料としてさえ見向きもされなかった出納帳・個人の日記、絵巻物などの資料から、今一度庶民の暮らしを見直そうという動き。庶民から遠く離れた為政者のしたこと、つまり出した法令や戦争を覚え込むのではなく、そこに暮らしていた庶民の生活や思想にようやく目が行きだした。そうした事実を教科書に取り上げるのがいいか、悪いかの論議をしようというのではありません。為政者や国が一方的に書き記すことによって歴史をつくっていた時代がようやく終わり、庶民の書き残す記録が歴史をつくっていく時代に入ってきたのではないかと言いたいのです。
 その意味では、われわれが書き記すものだって、いつなにがあって国の歴史を左右しないとも限りませんし、まあそれは大風呂敷すぎるとしても、少なくとも、わたしたちが、ものを書くことによって、命を奪われる時代ではありませんので、大いに書こうではありませんか、ということです。
 ただ、書くことが嫌だ。裸で生まれてきたのだからひっそりとこの世から消えたい、この世に存在の足あとを残すことが嫌だ、という考え方・生き方もあろうと思いますし、それはそれで一家言であると、わたしは考えますので、ものを書かないヤツは人間ではない、などと、一概に、みんなに、猫も杓子もものを書かねばならぬなどと、言っているわけではありません。ただ、書きたい人は大いばりで書きましょう、生きた証などと気張らなくても、それなりの意味はあるから、どんどん書きましょうと言っているのです。

 さて、書いたものを残すにあたって、なぜ残すか、どう残すか、と二つを分けて考えたいと思います。なぜ残すのか、は、「書くことの、あとさき」の「さき」方にも繋がっていますので、最初に、「どう残すか」についてかたづけてしまいましょう。
 どう残すか。
 表現手段が限られていた時代と違って、たとえば、モノを残す方法は書くことの他にもたくさんあるような気がします。
 たとえば写真。言葉はなくても姿は残ります。ただ写真は、こういう時代ですから、こちらの言葉で言えば、「だだくさもなく」あります。以前、遺稿集に載せる写真を、といったら、分厚いアルバムを二〇冊以上も出してきて、「足りなければ、こっちの箱にまだ整理していない分があります」と大きな菓子箱をいくつも出された未亡人がおられましたが、これは極端な例としても、成長を辿ったらどれを載せていいか迷ってしまいますし、第一、アルバムは数冊でも重いので、二〇冊も出された日には、…。おまけに本人がみれば、いつ、どんな状態で撮影したのか説明も出来るでしょうが、他人がその人を知るために見るには、ちょっと無理がある。亡くなった方が女性となれば、取り上げた写真が故人に気に入ってもらえるかどうかも疑問で、下手に載せたら化けてこないとも限らない。ともかく、アルバムの整理は他人にさせるものではありませんので、これは是非遠くに旅立つ前にご自身がやられておくことをお勧めします。
 …冗談はさておき、次はビデオテープ。一昔前は音声だけでしたが、今はハイテクのおかげでビデオカメラの映像もきれいなものが、素人でも簡単に、しかも安上がりに撮影できるようになりました。これであれば、姿ばかりか肉声も伝わります。また誰でも簡単に見られるしいいんじゃないでしょうか。確かに、その通りで、用途によってはいいような気がします。けれども六〇分なり一二〇分なりで、ビデオカメラの前に座り、そんなにきちんと話せるものなのか、たとえ原稿を用意したとしても果たして語り尽くせるものなのか。それに撮影されるのは話している時の本人で、うまく若いときの写真を入れるなど編集することができたとしても、結婚式のビデオテープと同じで、一度か二度見たあとは「ある」ということだけで見向きもされないのではないか。これは、パソコンなどを駆使し、CDやDVDなどでも編集や再生が容易に出来るのですが、たとえば本人が亡くなった後、残されたテープを家族揃ってテレビやパソコンで見る…などという光景は、なかなか想像できないのですが、みなさんはいかがでしょう。とくに、自分自身でさえ、はっきり言葉にならない思いや、時々の思索、あるいは、心にだけ残っている幼い頃の記憶や思い出などは、なかなかこうした方法では伝えきれないのではないか、写りすぎることも、言いたいことを阻害する原因になっている気がします。
 …昨年の今頃、わたしは胃癌の宣告をされました。医者があまりに簡単に「胃癌でしょう」などと言うものですから、一瞬あっけにとられ、そのまま「はぁ、そうですか」などと間抜けな返事をして、医院を後にしたのですが、その後「死」ということが頭を覆い尽くして、おおいに慌てました。人生の先輩であるみなさんも、大なり小なり同じような体験が既にあると思いますが、脳天気に暮らしてきたわたしにすれば癌は癌でもガ〜ンという鉄槌をくらったようなものでした。先程、お話したように、わたしはIターンで当地に来ましたので、当地に親類縁者がいたわけでもなく、もしわたしが急にあの世に逝ってしまったら、残された家内とこの春小学校六年になった息子をどうしたらいいのだろう。その身の振り方や、託しおく人々の顔など思い浮かべ、もしものとき、彼らに言い置くべきことは整理しておかねばならない、と真剣に考えたものです。そのとき、わたしが思い浮かべたのは、ビデオテープやアルバムではありませんでした。書き残すことだったのです。
 話がまたまた横道にそれてしまいましたが、心配をおかけするといけないので、横道の決着をつけておきますと、…そのときわたしは、たまたま飯田病院の仕事をしていて、一〇〇周年を迎えた病院の記念講演会に柳田邦男さんを招くことが決まっていました。昼の講演会が終わってから夕方の祝宴までの間に式典があり、病院の偉い方々が式典に出席するので、祝宴までの二、三時間の間、「お前が柳田先生の相手をしろ」ということになっていたのです。柳田邦男という作家は、美術博物館の隣にある民俗学者柳田国男と漢字表記が一文字違うだけの同姓同名の作家で、ご存じの方もおられると思いますし、あるいは昨年秋の文化会館での講演をお聴きになった方もおられると思います。医療と生き方の問題を扱った諸作の他、「マッハの壁」などといった良質のノンヒクションを多数執筆している当代では五本の指に入る優れたノンフクション作家だと思います。その先生の相手をしろ、というので、仕事ですので断ることもできず、付焼刃ですが、以前、手に入れて斜め読みしたまま放ってあった本を数冊、本棚の奥から引っ張り出して来て読み始めていました。その中の一冊に、彼の出世作となった「ガン回廊の朝(あした)」という六〇〇頁程の本があったのです。これは、日本人に突出して多い胃癌の研究と治療を目的に、昭和三〇年代に国立ガンセンターを立ち上げていくときの、ちょうどNHKの人気番組「プロジェクトX」のようなドキュメントなのです。胃癌を宣告されたとき、ちょうどわたしはこの本を読みはじめたばかりだったのです。胃カメラの開発の苦労や志半ばに次々に倒れていく医者など様々な苦難があるのですが、関係のあるところの結論からいいますと、胃癌の場合、そうした研究によって、昭和四〇年代に、日本は胃癌の研究と治療では、世界のトップに立ち、さらに「初期」とつく病名の癌、例えば「初期胃癌」「初期の肺癌や大腸癌」「初期の喉頭癌」であれば、治療後五年以上の生存率が、昭和五〇年時点で八〇%を越えるまでになっているというのです。幸いわたしの胃癌にも初期がついていましたので、「最悪の場合でも五年は執行猶予があるんだな」と、考える事が出来ました。柳田さんのその本を読んでいたおかけで、癌の宣告のショックで熱くなりかけていた頭が少し冷静になったのです。
 続いて、インターネットで国立ガンセンターのホームページにアクセスしてみると、癌治療の最前線が、症状によってはある意味で冷酷なことかもしれませんが、死亡率や手術の失敗の確率も含めて、一般の人にもわかりやすく書いてあります。…癌が不治の病で、病名を告げることが死刑宣告にも等しく、医者の判断で、本人にも知らせず、ごくかぎられた肉親だけがその事実を知っていて、それを患者本人に隠しながら患者が死に至るまで延命治療を続ける、…などという医療は今は行われていません。初期がつけば基本的には治るということが前提になっていますし、実際現在は九〇%以上が完治するというのです。たとえ再発・転移が認められても、その時点から治療を始め、さらに何年も生き延びるんですね。末期癌の場合でも特殊事情がない限り、第一に本人に告知し、インフォームドコンセントの上での治療が常道になっています。…そうしたことが、次々に分かってきますと、医者がああも簡単に癌の告知をした背景がわかってきました。ただし、そうした知識はもっと啓蒙活動をしないといけないな、とは思いますが、…現にわたしと同病で同室になったある会社の七〇歳を過ぎた会長さんなどは暗い表情で家族と水杯を交わしての入院だというので、手元にあった調べた資料をお見せし、患部を切除すれば五年一〇年はまず生き延びるし、運悪く再発あるいは転移しても、それから治療して、また五年一〇年ですから、「寿命が尽きるのとどっこいどっこいいですよ」などといったら、きょとんとしておられましたが、暗い表情はなくなりました。
 …そんなわけで、わたしの方も昨年の今頃無事手術を終えまして、現在こうしているわけですのでは当面ご心配には及ばないのですが、そのとき一瞬でも「死」を考えたこと、そして、そのときわたしはわたしの気持ちを家族に残す方法として、ビデオカメラや写真、テープ録音などではなく、書くことを考えたのでした。
 不幸にして、一冊の本にまとめるべき分量に書き溜めた文章もなく、…書き散らかした文章のリストは作ってあるので、家族にその気があれば後で読めるので、当面、差し迫った思いを残すために、わたしは無意識に書くことを選んでいたのです。
 …どうやって残すか、どう残すか、ということについて話し始めたのですが、…おそらく最終的には、人それぞれ、それぞれに似つかわしい方法を選ぶのだと思いますが、今日ここに集まっておいでの方々は、おそらくわたしと同じケースに遭遇したら「書くこと」を選ばれるのではないでしょうか。
 書くこと、書き残すことについては、わたしは、基本的に、日記帳であれ、大学ノートであれ、原稿用紙でも、また、わたしたちがテレビや電話を扱えるように、これからの人たちはパソコンを扱えないという人はいなくなると思いますから、自分さえできればパソコンのフロッピーやCD、ハードディスクの中に書き込んでもいいと思っています。決して本をつくって大量に読んでもらおうとしなくても、伝えたい人に確実に伝えられる方法で遺せばいいと思うのです。伝えたい人が一〇〇人を越えたら、印刷でもしなければ大変かも知れませんが、必ずしもそれが唯一の方法ではないと思います。

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 4 柳田邦男さんの講演から〜物語の完結
 …先程、柳田邦男さんの講演後、先生のお相手を仰せつかった話をいたしましたが、そうした体験を経た後でしたので、癌と医療や、それをめぐる生き方の専門家ともいうべき昨年秋の柳田さんの講演は実に感銘深いものでした。
「豊かな生、豊かな死」と題された二時間余にわたった講演は、日本人の死因の第一位で、毎年三十万人近くの方が亡くなっている癌、その癌に冒された人々が、末期を迎えながら、…つまり、死を目の前にしながらも、いかに豊かに生きることができるのか、様々な例をあげながらの講演でした。中でも、心に残ったのは胃癌にしろ、大腸癌・肺癌・膀胱癌や膵臓癌にしろ、冒されているのは身体の一部分であって「全体」ではない、ましてや心まで冒されているわけではないから、死を迎える直前まで、前向きに「生きる努力をする」ことが、いかに、自分自身の「生」を豊かにし、また「豊かな死」を迎えられるか、という言葉でした。口で言うのはたやすいのですが、それでは具体的にどういう生き方をすべきか/どんな目的を持つのか/どんな心構えをするのかといった実際の例を交えての講演で、目的を持って生きるための病を抱えながらの登山や終末期を迎えた方々が過ごすホスピスでのボランティア活動などとともに、闘病記や体験記を読んで病に対する先輩達の心の有り様を知ることなどを話されました。
 …実は柳田さんは、息子さんが自殺しています。息子さんの死に触れて、柳田さんは「何故、楽しい人生があるのに、何で死んでしまうのか」という、答えのない問いで自分を苛み、立ち上がれなくなっていました。でもその時に、司馬遼太郎さん、これも先頃癌で亡くなった作家ですね、彼から次のような内容の手紙を受け取ります。
「幕末の革命思想を生んだ吉田松陰、彼も獄中で二十七か二十八歳で亡くなりましたね。処刑されましたね。でもその亡くなる一週間くらい前に歌を残している。その歌にこんなふうな意味のことが書いてあったというのです。それは「人生二十五・六であろうと六十であろうと、全て春夏秋冬というものがあるものだ。悔いることない」、そのように書き残したというのです。例え若くてもそれなりにこの世に生きた人生に四季がある、春夏秋冬がある、起承転結がある。何か天はあるいは神はそういうことを運命付けるように決めている」と。司馬さんはその悔やみ状の中で、「私はただ馬齢を重ねるのみ」と、とても謙遜された言葉を書いていたというのですが、自ら死と隣り合わせに生きる作家が励ましの手紙をくれたのでした。
 …以下は、その励ましを受けての柳田さんの言葉です。「人生の春夏秋冬というのを考えますと、若かろうが歳取ろうが、その人なりにこの世に生きた他の誰でもない人生を生きた物語があって、その起承転結のある部分、クライマックスに病気というのがあったり事故があったりする。そうして本当の最終章のピリオドをうつのが死であったりするわけですが、死というのは終わりではなくて、そこで一つの物語が出来たら、その物語というのは家族の中で受け継がれていく心の中に残っていくんですね。自分のストーリーを他人任せではなく、自分で作っていく努力をする必要があるというのは、これからの生き方だと思っているのです」と。
 …柳田さんは、司馬さんの手紙を読んで、手紙の中にあった「その人なりの春夏秋冬」というのは、別な言葉で言えばその人なりの物語の完結ということで、自分の息子の死にも、彼自身の物語の完結をみたのだろうと心におさめていくのです。
 …黒澤明の「生きる」という映画をご覧になった方も多いと思いますが、その中で志村喬の演じた主人公、これは末期癌を宣告された公務員が一時は自暴自棄に陥ってしまうのですが、その後、自分の生きた証に、周囲の無理解に抗しながら地域に小さな公園をつくるという物語でした。そして、ようやく出来上がった公園でブランコをこぎながら「命短し、恋せよ、乙女〜」と口ずさみながら息絶える物語でしたが、その主人公の生き方や、柳田さんのお知り合いの方々の死を例にひきながら、柳田さんは「自分の物語は自分でつくる」という気持ち、前向きな生き方が、強いては豊かな死を迎えることに繋がると、お話しになったのです。
 わたしたちの物語の結末は、どんなかたちでやってくるかわかりません、公園のブランコができるまで待ってくれるかどうか、わからないのですが、「人は生きてきたようにしか死ねない」「どのように死ぬか」というのは、実は「どのように生きるか」と、先生は言うんですね。末期癌で死が間近いといっても、その全体や精神・こころが冒されているわけではないので、自分が自分の生きた物語を完結させるため、たとえ終末期であっても豊かな生き方をしている多くの人がいる。…講演では、会場のあちらこちらで共感や感動のすすり泣きが聞こえていました。柳田さんは続けて、自分の終末、もし万が一、無意識や意志が伝達できない状態に陥った場合も考えて、延命治療を施すのか、そうでないのか、病院で死を迎えたいのか、自宅にいたいのか、また死後の遺体の処理や葬儀に当たってのリビングウイル(生前の意志)や、自分自身で自分の「死亡記事」を書いてみることなども勧めておられます。死を身近におくことによって、より充実した豊かな生を営むことができる、とするこの講演内容は、この夏にも発刊される予定で、今編集中の飯田病院の一〇〇年の歩みを記した記念誌に掲載される予定ですので、発刊されましたら是非お読みいただきたいと思います。

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 5 ふるさと大使の遺書
 終末をどう迎えるか、いかに生き甲斐を持つか、自分自身の物語、死亡記事を書くこと…、柳田さんのお話しになったことを実行している方を、わたしは、今まさに眼前にしています。
 …みなさんは「信州飯田ふるさと大使」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。飯田市を都市の人に広めることを目的として、また都会に住む飯田市出身者の東京○○会などのまとめ役の窓口として、ほとんどボランティアの活動をしているのですが、平成六年頃から飯田市が東京に住む飯田出身者を「ふるさと大使」に任命しているのです。その初代ふるさと大使を務めたのが、飯田市駄科出身で、元出版社に勤めていた吉川紀彦(みちひこ)さんという方でした。高校時代ラグビーでならしたという彼は熱血漢で、使命感に燃えてお金にもならないふるさと大使の役目をこなしていたのですが、一年半後、食道に癌が見つかり、手術。しかし復帰する間もなく、その後、顎や胸、腕に転移が見つかり、手術と抗ガン治療を受け続けています。末期癌であることは本人も知っていて、「ふるさと大使」は別の方にかわってもらいました。四度にわたる手術は、彼から声帯を奪い、歩行の自由を奪い、また右手の自由も奪ってしまいました。
 そんな彼から、この二月末、「ふるさと大使」として新聞などに投書した原稿をまとめたいとの申し出が、彼の古くからの友人の塩澤実信というやはり駄科出身の出版ジャーナリストを通してありました。中央の出版界で活躍した二人ですので、業界に友人知人も多いので、わざわざ地方で出版しなくてもいいのですが、是非にとのことでしたのでお受けすることにしました。
 聞いてみると、吉川さんは既に余命幾ばくもなく、本人もそのことを承知だというのです。けれども、自分自身の物語の結末を自分自身で書くために、そして、自身の生きた証を郷土や残された肉親に残したいと、出版に踏み切ったというのです。幸い原稿はありましたが、起きあがることもできないベッドの上で、声も出ない、聞き取れない家族とのやりとりで写真を用意し、利き腕とは逆の、わずかに動く左手で赤ペンを持つ彼の姿は、想像するにも、凄惨なものがあるのですが、間に立って吉川さんを見舞う塩澤さんによれば、既にモルヒネも効かなくなって激痛が絶え間なく襲い眠ることさえ出来ない彼にとって、赤ペンを持つときだけはその痛みを忘れることができる唯一の時間だというのです。彼の文章は南信州にも掲載されたのでお読みになった方もおられるでしょうし、文章の事ですから好悪もあると思いますが、彼にとって今書くことが唯一生きることに等しいのは、誰しも否定できないのではないかと思います。その本のタイトルは「恋しきかな、ありがたきかな故郷」といいます。彼はその本扉に「本書を亡くなった父母と、愛する妻と子どもたちに捧げる」と献辞を寄せています。今、三回目の校正が済んで、いよいよ印刷に廻したところです。冷たいようですが、これが彼が生きている内に彼の手元に届く保証はありません。
 けれども、こうした彼の最期の姿を家族は知っています。そして、彼のメッセージは残されます。

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 6 心なき言葉のむなしさ
 なぜ書き残すのか、については、それぞれ事情があるので一概に言えません。
 今申し上げた吉川さんのような場合もあるでしょうし、先に申し上げた母親の遺した短歌集のような場合もあるでしょう。
 わたしなどは頭の中がいつも混乱状態になるので、たまに自分が何を考えているかわからなくなる時があります。立ち止まって自分の足元を確認し、自分の考えや気持ちを整理するために書く、また、それを記録しておくために書くことが、ままあります。ですから、こういうお話は、本当は煩わしいし、面倒で、嫌ですけれども、なるべくお引き受けして原稿を書くことによって時々の自分を整理しておこうと思って引き受けるのです。けれども、結局はギリギリまでかかって乱暴に書き上げるだけになってしまうのですが、それでも書かないよりはいいと諦めています。
 さて、本を作ったような人を例にあげれば、自己表現の手段として小説・エッセイ、歌集や句集。またある人は、蔵の中に先祖伝来のたくさんの家宝がある。これは、あくまでも家宝であって、その家にとって意味があるので他の人にとって意味があるかどうかは別問題ですが、その家宝を、本来ならば、丁寧に一つひとつ、桐箱を開け、あるいは、軸の紐をほどきながら、曰く因縁を伝えたいのですが、残念ながら若い人には興味がないから、いつか興味が出てきたときのために、あるいは軽々に売ってしまわないように、書き残しておく。またある人は、最愛の者を失った悲しみを記録の中にとどめて、自分自身が悲しみに暮れる生活から日常に復帰するために、失った者への気持ちや逝った人が遺した日記や短歌、闘病の記録を書き記す。またある人は、代々続く家のしきたりや、亡くなった親と同じ年齢になって気になって調べだした家の歴史を書き記す、様々な事業や政治に拘わってきた人が、その事業の裏側にあった苦労や真実を書き記す、ある人は自己表現が下手で、ふだんなかなか面と向かって言えなかった家族への感謝や子どもの成長の思い出を。また、ある人は…、と例をあげればキリがなく、そして、その一つひとつに、書き記したいと思った、本人の心の高ぶりというか、ドラマがあります。
 文章を書く上で、もっとも大切なものは、この誰かに何かを伝えずにはおれない心の高ぶりがあるか、ないか、ということではないかと思います。
 いろいろな書物や文章を読んでいて、この本人の心の高ぶりが感じられないものほどつまらない文章はありません。「言葉は心の使い」ということわざがありますが、心の入っていない言葉は、いくら「感動した」「楽しかった」「忘れられない」「悲しかった」などという語句を使っても、ただ書くだけのための言葉だったり、寄せ集めた知識を並べただけであって、力をもちません。言葉の背後に、本当に心が高ぶり、感動し、あるいは夢中になっている本人がいなければ、どんなに美辞麗句を連ねても空しいだけです。何も伝わらない。むしろ読むに苦痛を覚える妙に正確なだけの文章になってしまうときさえあります。旅行記などに多いのですが、調べたことを列記しないとすまないとばかりにパンフレットやガイドブックの受け売りの知識や旅行の行程をこれでもかと書き込むけれども、本人が何を見、何を感じ、何を伝えたいのか、書くことを通じて何を伝えたいのか、一つも伝わってこない文章があります。その他にも、教えてやる、すばらしいぞ、悲しむべきである、と書いている文章は、本人のそんな心の有り様が、どこといって変な文章でもないのに、読みにくい、何も伝わってこない、そんな文章をつくっているようです。わたしは編集の仕事をしていますが、そうした高ぶりの感じられない文章は編集していてもつまらないものです。
 それにひきかえ、どんなにへたくそな文章でも、多少「てにをは」が乱れていようとも、本人の心が動いているもの、のめり込み、感動しているものは、その人柄も含めて何かしら伝わってくるものがあります。これはどうやら「てにをは」のうまさとは違うものがあるような気がします。ペンを持つ上で、(最近であれば、キーボードに向かうときに、とでもいうのでしょうか)、たとえうまく言葉にならなくても、誰かに、伝えたい何かがある、伝えたいという心の高ぶりがあること、が、文章を書く上で最も大切ではないかと思うようになりました。
 さきほど柳田さんの、死亡記事を書くこと、とかリビングウィルを書いておこうという提言は、死を傍らにおくような状況をつくりだすこと、それほど逼迫した状態に自分を置くことによって、自分の中の言いたいことを確認する方法でもあったわけです。
 どんなに春風駘蕩、春風が吹いているような、のほほんとした雰囲気の文章を書いても、その水面下というか紙背に、きちんと「死」の認識、則ち「生」の把握がある文は「心」が伝わってきますし、逆にそうした思索の上に紡がれた文章だからこそ、たとえば「のほほん」とした表現が引き立つのではないでしょうか。
 中国の詩人蘇東坡に「意到りて筆随う」という言葉があるそうです。筆が随ってくれるのは大文章家だけかもしれませんが、これとて「意到りて」、即ち書きたい心がまず先にあるのです。
 「心あまりて言葉足らず」とは、紀貫之が、確か『新古今和歌集』の「仮名序」で在原業平の歌を評して言った言葉です。言いたいことのありあまる心は十分わかる、けれどもその表現では本当の心襞までは伝わらないよ、次は技術を磨けということなのだと思いますが、これもまた「心」先にありき、「言葉」つまり表現/言い方の巧拙は、その次にくる問題だということを示していると思いますが、いかがでしょうか。

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 7 第一の読者を想定せよ
 したがって、次から述べることは、この心あって、その後のことで、この順序が逆では、意味がないんじゃないのかな、とあらかじめ申し上げておきます。この喜怒哀楽の心のたかぶりというか、感動というか、伝えたい内容や伝えたい心がないと言葉が力を持たないのは縷々述べたとおりですが、しかし、心のたかぶりだけでは、気持ちが伝わらないのは言うまでもありません。といって、技術を磨けといわれても、今更どうしていいのか、困るんじゃないでしょうか。
 その技術的なことやコツを、日々文章道に精進されているみなさんに向かって話さなければならない、と思うと、言葉に慎重にならざるを得ないので、話せなくなると思いますので、わたしは、文章の苦手だといって相談にこられた同年輩の方か、やや目上の人に話すような気持ちで話させていただきます。ですから、みなさんにとっては当たり前のつまらない話になるかもしれませんが、お許しください。
 まずわたしは、その方に「伝えたい心と伝えたい何か」があるとことを確認します。
 けれども、そうした気持ちだけで書いた文章の欠点は、得てして自己本位で、本人だけがわかっているが、まわりの人がわかりにくいという点です。「て、に、を、は」の使い方も知らず、本(他人の文章ですね)もあまり読まない人がいきなり書いたような場合は、手の施しようのない場合もあります。そうした場合は、こちらで口述筆記した方が早いのですが、それ以外、ある程度、書けている場合は、誰に伝えるかが揺れている場合が多いのです。
 趣味の会などの同好の人々が読む文集に書く文章、あるいはPTAの会報や地域の公民館の官報に頼まれた寄稿、孫や子に知って欲しい自分の考えを残す文章、伊那などの特定分野の雑誌に載せる論考と、新聞の投書や小説、随筆など一定レベルの不特定多数の読者を想定した文章とでは、それぞれ書き方が違うのが常ですが、ただ自分の思いを書きたいというだけで書きだしてしまうと、時に美辞麗句を並べた挨拶のようになり、時に特定の人だけしか知らないはずの話題を周知のことのように扱ってしまったり、時には普通の人がとっても読めないような術語(テクニカル・ターム)を注釈もなしに使ってしまったり、あるいは妙に説明的な文章になって、かえって読みにくい文章になってしまう。
 誰に伝えたいか、伝えたい人の顔を念頭に思い浮かべながら、ゆっくり書きだしてみるのも一つの方法だと思います。たった一人の人に伝わらない文章が、多くの人に伝わらないことはいうまでもありません。自分以外の誰かを想定して、その人の為に書きだしてみることを勧めたいと思います。それが一人の為の文章でなければ、複数の顔を思い浮かべて、書いてください。たとえば、たった二人の人にだって、年齢も、性別も、興味もちがえば、その言い方で、伝わりますか、と常に疑問を発しながら書き進めていくことによって、それまでの文章とは違ってくると思います。
 次に、その意の伝え方を学ぶには、やはり多くの文に触れることだと思います。いわゆる名文といわれているような、エッセイなどは、やはり読ませる工夫や仕掛けが施されていますので、そうした文章を、なるべく数多く味読して、名人の心の表現方法を学のが一番だと思います。とくに共鳴できる思いなり、考え方が書かれている文章に出会ったら、自分自身もその思い、その考えたを別に書いてみるといいと思います。そうすると、同じ思いを書くのに、どうしてあの言葉を使ったのか、どうして、そうした順番で話したのか、ということが、うすぼんやりと見えてくるのです。自分以外のたった一人の為に書く文章であればその人さえ伝わればいい。けれども、伝えたい人が、他にもいるなら、そのための表現をしなければならないのですが、それは、多くの表現の方法に出会い、学んでいくしかないと思うのです。同じ思いを異なる言葉、方法で伝える事ができると意識して文章が読める、書けるようになると、いわゆる効果的な表現というものがわかりますし、他人の文を読んでも、その行間を読んだり、紙背がみえてくると思うのですが、いかがでしょうか。さらにいえば、句読点に気をつけながら、書いたものを声を出して読んでみるといいでしょう。決して音読しやすい文章を心がけなさいといっているのではありませんが、一息に読み切れないフレーズはなにかまだ工夫の土地が残っているもので、目で書いた文章を耳を通して推敲をすることによって、自分の思考のリズムも確認できると思うのですが、いかがでしょう。

 8 おわりに
 書くことは整理し残すことだ、という視点から、書いたものの「あと」即ち、残し方、残り方。また、書くことを選んだわたしたちにとって、書くことの意味、そして、なぜ書くのかという、書くことの前にある問題、即ち「さき」についてお話してきたつもりですが、おそらくわたしの頭の中と同様、錯乱して意味不明瞭だったのではないかと心配しております。最後まで、辛抱強く、ご静聴くださいまして、本当にありがとうございました。


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