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 読書体験と文学の周辺         

1997.6.10 飯田市立中央図書館 飯伊婦人文庫講演原稿


 1 見えるものと見えないもの
 2 お前は何者、何になりたいのか?
 3 文学のふたつの側面〜社会と個人/自我と世界の問題として

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 ただいまご紹介にあずかりました小田嶋です。
 ご紹介いただきましたとおり今回縁あって婦人文庫四十周年記念誌「みんなで読もう」の編集のお手伝いをさせていただいた関係で、何かお話をしろと吉田委員長の方からご下命があり、ここに立つ羽目になりました。
 「読書体験と文学の周辺」という演題をつけて、みましたが、長年読書を通して研鑽をつまれてきた皆様を前に、皆さんの子ども、ともすれば孫のような、どこの馬の骨ともわからないような若造が、本から受け売りの知識をひけらかしても失礼にあたるだけですので、今日はなるべく自分の言葉で自分の考えていることだけを話したいと思います。

 見えるものと見えないもの


 本題に入る前に、その「馬の骨」の紹介を少しくしておこうと思います。
 私は東北は秋田県の横手市というところで生まれました。秋田県はちょうど長野県と同じように県庁所在地が県の北部にあります。私の生まれた横手市は県の南部の五万人に満たない城下町です。県庁まで自動車で二時間弱、多少距離感は違いますが、ちょうど飯田市と長野市と同じような位置関係にあります。最近では不正支出で辞任した知事に代わって元の横手市長が県知事に選出されました。長野県でいえば飯田市長が県知事になったようなものですから、私にとっては驚きでした。
 普通、横手といえば小正月行事で、エスキモーの氷の家のような洞を雪でつくり、水神様を祀る「かまくら」が時々テレビに映ったりしますので、ご存じの方もおられるかもしれません。また、皆さんには石坂洋次郎の『若い人』や『青い山脈』『山と川のある町』のモデルになったところといった方がイメージが湧くかもしれません。函館の女子校で教えた後、男子高だった私の母校の赴任した石坂洋次郎は、教鞭をとりながら『三田文学』に作品を発表し、『若い人』の刊行によって一躍流行作家となっていきます。これは戦前の話ですが、戦後は『青い山脈』などで青春ユーモア小説のような通俗小説の新分野に乗り出していった作家です。
 もちろん私が高校に在学した当時既に洋次郎は文壇の大家になっており、残念ながら直接その謦咳(けいがい)に接する機会はありませんでした。学校の方は男子校という看板は下ろしたものの千人の全校生徒に対してわずか三十名程度の女生徒がいるだけ、また当時で九十五パーセントが進学、その内の半分が国公立という大変な進学校で、「戀しい」と「変しい」を誤って書くような生徒はもういませんでした。それでも、私もその一人でしたが高下駄で通う生徒もおり、城跡の公園には『若い人』の一文を刻んだ石碑があり、市内にはまだ女子校もあって、小説の世界が多少は残っていたような気もします。今は「石坂洋次郎記念館」というものができて観光に一役買っているようです。
 ところが、当時あまり気にならなかったのですが、今になって不思議に思うのは、石坂洋次郎と同じ頃活躍した作家で、昭和十年『蒼氓(そうぼう)』で第一回芥川賞を受章した社会派小説の石川達三は横手の生まれにも関わらず、あまり注目もされず、今もって記念館という声もありません。石坂は国民的作家ではありますが、文学の格から言えば石川の方が上のはずです。石川はプロレタリア文学の退潮期にそれにとってかわる『日陰の村』『生きている兵隊』『暗い嘆きの谷間』『風にそよぐ葦』といった社会的な正義感による現実追求の優れた小説を発表しています。その後は『金環蝕』『青春の蹉跌』等、大胆な風俗小説に移り多くの読者を獲得します。

 双方とも戦時中は発禁処分を受けたりしたという条件は同じわけですが、青森県生まれの石坂洋次郎の記念館ができて、地元出身の石川達三がネグレクトされているのはなぜでしょうか? 実はこれを追っていくと、地域に入れられる者と入れられない者という現代にも通底する時代と地域と人の関係から文学が見えてくるのですが、これを話すには、みなさんからあまりにも遠い秋田という地域の話を長々しなければなりませんので、今日は端折って話を先に進めることにします。
 さてもう一人触れておきたいのは、母親の畑友達というんでしょうか、知り合いに武野武治(むのたけじ)という奇人がいました。社会部記者としてならしたジャーナリストで、敗戦の日に朝日新聞を退社、郷里に帰って週刊「たいまつ」という新聞を出していました。今思えば、その人が何を考えて戦時中の報道に携わり、何を考えて敗戦を契機に郷里に帰ったのか、知りたいことはたくさんあるのですが、当時の私はそうした社会的視点というものが、まったくもって開かれておらず、七十年安保闘争の安田講堂でさえその正確な意味がわかっていませんでした。むのは人名録によれば大正四年生まれとありますから、現在八十二歳、先日、秋田の両親に電話をした折り、「むのさんはどうしている?」と聞いたら、元気で自転車で飛び回っているとのことでした。
 戦前戦後の知識人たちが思想的洗礼を受けた左翼思想といえば、横手市というところは不思議なところで、東大ポポロ事件の被告が市長をやっていたりもしましたから、案外思想的には開けていたような気もします。この「ポポロ事件」というのは昭和二十七年東京大学の劇団ポポロの学内演劇発表会に潜入した私服警官が、警察手帳を学生に取り上げられた事件で、裁判で大学の自治・学問の自由と警備活動の限界が争点となり、最高裁判所まで判決が持ち込まれ、政治的集会は大学の自治の保障をうけないとする判決が出ていますが、これも広辞苑の第四版では既に削られて記載がありません。講談社の日本語大辞典には七行だけですが出ていました。辞書になにを載せ、何を削るか、というのは出版社の姿勢がわかっておもしろいですね。

 話が横道にそれたついでにいえば、この婦人文庫にゆかりの深い前飯田市長の松澤太郎さんのお宅にうかがったおり、たまたま郷里の話が出たついでにポポロ事件で被告になった市長の話をしましたところ、「革新市長の会」という市長さんたちの集まりで一緒だった、おもしろい人であったといっておられました。

 この地元で過ごした高校時代までに、本当に内容が読みとれたかどうかは別として日本内外の小説はもちろん、詩や今読んでもわからない哲学書まで、手当たり次第読んでいた気がします。

 さて、ここで私がいいたいのは、一つは高校までの私の育った自己紹介。そしてもう一つは、石坂洋次郎と石川達三のことにしても、むのや市長のことにしても、当時は気にならならなくて今とても気になってるんです。中途半端な言い方になりますが、つまりは見ようと思えば見られる環境にありながら、目には見えてこない現実の風景があるということを申したいのであります。


 話を次に進めます。

 私たちの大学受験は、共通一次試験が実施される前年の、一期校二期校に分かれて受験した最後の年次にあたります。父親は公務員でありながら土地家屋調査士であり、日曜百姓でもあった人ですが、「国立以外は駄目、浪人も許さない」と口癖のようにいっておりました。私も「そうか」と思って、新潟大学と北海道教育大学を受験することにしました。新潟を選んだのは坂口安吾の影響、また北海道を選んだのは武者小路実篤や有島武郎らの白樺派の諸作品、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のクラーク博士や内村鑑三の清新な思想と、「北海道」という土地のイメージが選ばせたのではないかと思います。石川啄木や宮沢賢治・国語学者金田一京助といった人は東北・岩手の人ですが、頭や身体は東京へ向かい、視線は北へ向かうというイメージがあります。その頃はまだ読んでいませんでしたが、「蟹工船」の小林多喜二などもそうです。大正から昭和初期、戦前までの作家は、活動の場を東京へと中心に向かう一方で、作品の中には北へ向かう視線がどこかにある。文学の中心と周辺、大陸進出の政策が進行していた時代背景、経済の周辺という意味での「北」や「辺境」。「北へ向かう文学者たちの視線」というのは一つの研究課題にもなるような気がしていますが、それはまた別の話。

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 お前は何者、何になりたいのか?

 幸い両校から合格通知をいただきましたが、当時は坂口安吾の方により強く惹かれていたのだと思います。新潟に行くことに決めました。教育学部でしたので、両親もいずれは地元に戻ってくるだろうと思っていたでしょうし、本人もさしたる抵抗もなくそう思っていました。教育学部ですから、それなりの勉強をし、それなりの体験も重ねていきます。 その頃は、学生運動も下火になっており、六十年安保や七十年安保闘争に明け暮れた一世代前の学生とは違って、はなはだ平穏な、ある意味では政治参加の意欲が挫折した、はなはだ無気力な学生時代を過ごしたことになります。地方であったということも影響していたと思います。

 教育学部の教員養成課程は、大学によって取得する単位が多少違いますので、皆さんや皆さんのお子さまたちの受けられたものとは違っていると思いますが、新潟大学では大学の二年から四年生までそれぞれ約二週間、計一カ月以上にわたって教育実習が課せられます。この長い教育実習を通して、私は教師になることをやめようと思うようになります。

 理由はいろいろありますが、外的な要因は、実習を通して見えてきた教員の世界の奇矯さ(かたちんば)に馴染めなかったのです。まず仲間たち、自分も含めて知識らしい知識も持ち合わせていない同輩が教員強制課程を経て教職の資格をとったというだけで、自分たちの内実に何の疑いもなく教師になっていくということ。また、教育実習で垣間見た教師たちの学閥や派閥世界、また実力のなさ、向上心のなさ、もちろん例外も多いと思ったのですが、そうした人々が「先生」と呼び合う異常な世界になんともやりきれない思いを抱いたことを覚えています。三年のとき六十人ぐらいのそうした同輩たちの教生長をやりながら、頭の中では教員は自分には合わないと考えていました。
 もう一つの決定的な理由は内的なものです。私は国語課といって中学校の国語の資格を中心に小学校と高校の国語の免許のとれる課程に学んでいましたが、学んだことをただ次世代の子どもたちに教えるのであればそれなりのことはできるような気もしたのですが、私が本を読んで本を読む楽しさや本のおもしろさを知ったのは、教室で習う無味乾燥な知識や技術、あるいは国語のテストで高得点をあげるためのテクニックや文法といったものではなく、むしろそうしたものとは対極にあるような本あるいは読書という行為の「わからない世界そのもの提示とその魅力と対峙すること」「言葉に表現できない楽しさ」、「未知の世界」が本と本を読むという行為に封じ込められている魔法の魅力だったような気がして、わかっていることを教える、いわば受け売りの知識の伝達では、それまで受けた教育と得た知識では、そうした楽しさを子どもたちに伝えられないという気持ちが強かったからです。「単なる伝言板では教師になる意味がない」「少なくとも、自分が本を読むおもしろさを子どもたちに伝える方法を持たないうちは教師になるまい」と、今は必ずしもそうは思っていないのですが、当時の私は一途にそう思い込んでいました。

 と当時に、四年次に養護学校の実習もうけたのですが、先輩方のいうように、確かに「ここに教育の原点がある」というような気持ちになりかけていたとき、自身に選択をせまるような出来事が起こったのです。なにか自分たちの面倒をしきりにみてくれる、いつもと違う先生らしき人が来て、一緒に遊んでくれると思った児童の一人が、昼食時、自分の食べている具だくさんのスープを、スプーンですくって先生に差し出したのです。「アーンして」と。けれども、その鼻水と涎の混じったようなスプーンを私は口に出来ませんでした。よくあることで気にしなくてもよいと指導教官はいってくれたのですが、こんなことも心のどこかに引っかかっていたのかもしれません。

 この頃は、授業に必要な読書の他に、全集読みの楽しさを知って、森鴎外、夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、宮沢賢治、堀辰雄、志賀直哉、泉鏡花、水上瀧太郎、太宰治、川端康成、大江健三郎、中上健次、古井由吉、少なくとも高校入試に出てくるような文学史上の作家の作品は殆ど一通りは読んでいたような気がします。また教育学部でしたので『大村はまの国語教室や、教育とその周辺にかかわるもの、たとえば灰谷健次郎の『太陽の子』や一連の作品、ミヒャエル・エンデの『モモ』『はてしない物語』『機関車ジム・ボタン』のシリーズ、『鏡の中の私』、その他、中山恒『ボクラ少国民』でしたっけ、児童文学なんかも手当たり次第読んでいました。というのも、先ほどお話しした教育実習以外の授業以外の時間、一年の三分の一くらいは山登りをしているか、旅にでているかといった具合で、列車の中、テントの中など読書の時間はたくさんあったのです。
 話は逸れますが、大学四年間を通して横手に帰ったのは合計してもわずか一週間にも満たなかったのではないかと思います。いまから思えば、親の心配も省みない脳天気な息子であったわけです。それでも論文やテストはそこそこの成績をおさめ、とりわけ事件も起こしたわけではないので無事卒業できるのですから、大学というのは不思議なところです。
 さて教師にならないとなると、いったいお前は何者で、いったい何になりたいのか? こうした本質的な命題に突き当たるわけです。十七歳になるかならぬかの高校生が教育学部に入ると、親も本人もなんだか安心してしまって、こうした本質的な疑問さえもたなくなるというのは恐いことです。温室の中にばかりいると、外の冷たさを忘れてしまう。時には温室にいるということさえ忘れてしまう、教師になるのをやめて初めてそうした命題に行き当たったのですから、やはりのんびりしていたのでしょう。

 大学院にいって勉強をしなおそうと思うまでに時間はかかりませんでしたが、語学などの受験準備が遅きに失して、その年は東北大学を受けたのですが見事に振られました。けれどもちょうど新潟大学でも大学院をつくる準備が進められていて、その前身にあたる人文学専攻科に進学できました。そこで学部長だった教授が担当教官で、近代文学の生徒は私一人でした。教授の専門は、硯友社で尾崎紅葉、川上眉山、山田美妙、泉鏡花等々、江戸の戯作の流れをひく明治初期の作家でしたので、江戸期の戯作から明治にかけての研究的読書をする一方で、英語と漢文(これは中国語にかわる第二外国語として認められていた)の受験勉強を平行してやりました。途中、産休の先生が急に都合がつかなくなったから、ちょっと教えてこいというので半分は寮から通うというカトリックの女子高校で夏休みを挟んで四カ月間ほど教壇にも立つというようなハプニングもありました。

 様々な経験を積み、学べば学ぶほど、自身の底の浅さがわかるようになり、進学の決意は強くなりました。

 作品を読むという行為と平行して、作品の解釈及つまり論文を読むと機会が多くなってくると、国文学研究の世界にも学風という一種の流れがあるのに気づきます。東京大学と京都大学の二大潮流の他に、東北大学は岡崎義恵という学者が「文芸学」という一派を興して独自な学風を形づくっており、魅力ある読解を続けていましたし、教育畑を視野に入れれば広島大学も独自の実践をしているように思えました。どうせ学ぶのならやはり魅力のある学風をと考え、東大系の東京都立大学、それから東北大学、金沢大学を受験することに決めました。東北にはまたしても振られ、東京都立大学と金沢大学から合格通知が届きましたが、「お前はぼんやりしているから少し人混みに出て刺激を受けるといい」というアドバイスのもと、東京に出ることにしたのです。確かに、刺激は強くて、初めて新宿の雑踏に降り立ったとき、目眩をおこして動けなくなったものです。それはさておき、東京都立大学で受けた刺激は確かに強いものがありました。

 担当教官は源氏物語と近代文学が専門で、柳田国男の「重ね合わせ」の手法を取り入れた柔軟な読みを許してくれるような幅の広いひとでした。しかし、なによりも驚いたのは言葉が通じないことでした。

 大学院の授業はゼミ形式でしたが、既に大学院の博士課程の在籍年限を終えて各大学に講座をもっているような卒業生(彼らをオーバードクターといいます)が、出席します。したがってゼミの教授が一人、オーバードクターが四ないし六人、学生は二人でした。

 ゼミの会話は勢い人数の多い人たちの「言葉」で進められていきます。大学院のゼミはもともと教えられにいくところではありませんから、自分たちの使うテクニカル・ターム(学術用語)が新入りにわかろうがわかるまいが、彼らは貴重な時間をなんとかつくってゼミにくるわけですので、自分たちは自分たちの読みを披瀝し、批判を請い、自身の読みを深めていくために来ている。彼らにとっては、一種闘いの場ですから、言葉の定義はするものの自分たちの言葉をいちいち新入りにわかるように説明なぞしてくれない。

 当時は、ロラン・バルト、ロトマン、バフチン、ヴィゴツキーなど構造主義がかげりをみせ、ポスト構造主義がいわれだした頃でデリラやフーコー、メルロ・ポンテイまたチェコやロシアのフォルマリズム理論また日本では吉本隆明、山口昌男や前田愛、柄谷行人がよく話題にはのぼりましたが、これらの研究者はもとより研究論文に使われたテクニカルタームの概念、枠組み、言葉がわからないんです。…つまりは共通とする土台そのものが天と地ほどの開きがある。ゼミそのものが、新しい思想の解明とその向こうにあるもの、それらを鏡に自分自身の読解方法を深め、また批判していくのが主眼でしたから、「教える」という観点はないんです。新思想の移入にも敏感でしたので、勢い欧米の新しい文学理論書などは翻訳を待ってすぐさまゼミの爼上にのぼる、いきおい新しい概念、新しい言葉がとびかうことになるんですね。今から考えると。

 なかには国文学の博士号じゃものたりなくて哲学の博士号をとっているような人も混じっていましたから、その用語たるや、田舎でのぼんやり青年にはそれだけで目眩を起こすにたるものでした。さきほど「言葉が通じない」と申し上げましたが、たとえば森鴎外なら森鴎外を論じていても、本当に何をいっているかわからないのです。切り裂くメスが私がもっているのが江戸時代の刃物であれば、彼らは体内の断層写真も撮れるというMRSなんかを駆使しているという感じ、その開き。個々の作品の解析と解釈、また文学論議をここで広げることはしませんが、当時の私はゼミの会話に出てくる論文や本の名前を片っ端からメモして、本屋に注文、なけなしの小遣いを叩いて読み漁り、なんとか飛び交う言葉を捕まえようと努めるのが精一杯でした。もしかすると半年ぐらいは本当に口を開いていただけだったかもしれません。

 一方で、大学院のゼミの教授の担当する学部の授業にも四つくらい出席することにしました。学部向けであれば少しは言葉がわかるかと思ったのです。人数も二十人前後できちんと出席する者は十人前後でしたし、さすがに大学院のゼミとはちがって教えるという配慮がある程度あったので、やっと言葉がわかりました。しかし、言葉を得て、みつけたものはやはり「言葉がわかっていない」ということでした。


 森鴎外「青年」と「泉鏡花論」は勉強になりました。

「青年」は明治四十三年から『スバル』に発表された作品です。小泉純一という作家志望の青年が、「現代の生活」を描こうとして上京、様々な体験を重ねることによって自身の進むべき道を見いだしていくという明治末年の思想的危機を生きた青年の物語ですが、たとえば主人公が手にしている地図が「東京方眼図」。これはなんと鴎外のつくった実際の地図なんですが、また鴎外自身の戯画化もしていたり、そうした遊びをしている。あのいつも苦虫をかみつぶしたような顔をしている謹言実直居士鴎外森林太郎がです。また当時小説といえば「自然主義」が本流だった時代ですが、これに対する的確な批判もあり、前年にでた『ヰタ・セクスアリス』と合わせて、よく鴎外と並び称される夏目漱石の『三四郎』(明治四十一年)への応答であり、鴎外なりの自然主義への態度表明があるんですね。 重ね合わせるといえば、泉鏡花「照葉狂言」と樋口一葉「たけくらべ」と森鴎外の「即興詩人」の、時代・思想・作品を重ね合わせて作品を読み味わっていく「泉鏡花論」の授業は「ああ文学作品はこういうふうに読むものか」と思い知らされた時間でした。

 鴎外の「青年」にしても、鏡花の作品にしてもそれまでも何度も読んではいるんですが、そこに「たけくらべ」をおいてみるとまた違った世界が開けてくる。むしろおいて読むのを前提につくられた作品なんですね。「即興詩人」しかり。つまりは、その時代の文学者たちは互いの作品を通し、相手の作品に疑問を投げかけたり、論陣をはったり、ちゃかしたり揶揄したり、揚げ足とったり、遊んだり、ありとあらゆることを作品を通してやっているんですね。

 もともと私の読書は「全集読み」、つまり同じ作家の作品を集中的に全部読むやり方です。時間軸にそって縦方向に読むことが中心でしたが、それもも大切だけれども、同時代の横の広がり、あるいは影響関係で読んでいかなければ作品の本来の位相(おかれた位置)や面白味が読みとれないのではないか、その横の広がりは世相や時代思潮などを知らずには作品や作家を読み切れないところがあることに気がついたのです。 みなさんに私の考えを押しつける気持ちは毛頭ありませんが、私は、こうした経緯の中で、私のなかにおぼろげながら「文学」というものを組み立てていったのです。

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 文学のふたつの側面〜社会と個人/自我と世界の問題として

 話はまたしても飛躍します。言葉足らずで荒っぽいのを承知でいえば、文学には二つの側面があるような気がします。

 ひとつは、その時代にはまさに「文学」であっても、時代が文学を飲み込んでしまえば、それは文学的遺物でしかなくなるような「文学」があること。たとえばプロレタリア文学とよばれた一連の作品やダダやシュールレアリストたちの詩作、新感覚派の消えていった作家と作品など、当時は最先端で誰も思いもつかない感覚や常識の矛盾をつくけれども、それはそれで文学そのものではあるのだけれども、時代がそうした常識を認めるようになると、新しくもなんともない思考・表現・感情になってしまって、むしろ陳腐としか思えなくなるようなところを含んだものがあること。つまり「文学」というものには「時代」が生み出す一面があること。
くどいようだけれども、つけくわえれば、文学作品には生まれでた時代に対して「異義申し立て」をするような部分が思想的感情的道義的な面で必ずあります。それが人間本来の欲求に基づいた根元的なものであればあるほど、異義申し立ての度合いは強いものになろうし、思想抑圧下や戦時下などの時代が反人間的であればあるほど巧妙に、あるいは声高になります。時代や常識が人間のあるべき姿を圧しているとする訴えをどこかに含んでいるからです。政治的な思想ばかりでなく、例えば恋…鴎外の「舞姫」エリスを捨てる官僚の心に残る傷も、今ではむしろエリスに同情が集まるかもしれないけれども、当時の時代からすれば多少曲折はあるにせよ一国の選良(エリート)が外国の商売女との契りをそんなに重大にとらえるような環境・世間ではない。鴎外はそれを問題にしていくんです。

 川端康成の「伊豆の踊り子」にしてもまともな旅館にさえ泊まることのできない河原乞食と呼ばれた旅芸人の少女と、その少女に淡い恋心を持ちつつ別れる書生の心情が描かれているといはいうものの、書生が感じており少女が体現していたものはどうしようもない乗り越えられない階級差です。逆にそれをなぜ作品にしていったか、と読んでいけば、身分とか階級・学識といったものに隔てられる恋のありようの不自然さが描かれていたのです。
 「物乞い旅芸人村に入るべからず」
という立て札が「ところどころの村の入り口に立てられていた」『伊豆の踊り子』の中にある文章ですが、これが当時の旅芸人に対する世間の目なのです。「舞姫」が明治の末、「伊豆の踊り子」が大正中頃、いずれも近代化を急ぐ日本がいまだ家長制度や儒教思想、男尊女卑の前近代的な澱(おり)を捨てきれず、近代的な自我に目覚めた文学者たちが、人間の本性に則った恋愛を押さえつける現実の壁を一方は直裁に、また一方は叙情的に切り裂いた作品であったといえるような気がします。社会や常識や世間が押さえつけていた人間の本姓の認識と、押さえつけるものへの抵抗が文学作品の底流にあるんです。

 世間や常識に刃向かう姿勢が文学の中にあった、だから小説を読むものは不良だとする認識が一方にあったのです。小説を読むから不良ではなく、小説の中の反社会的な言葉に共鳴する感性をさして不良といったのです。だからこそ言葉を理解する者は寸暇を惜しんで、また家人や世間の目を盗んで、「不良」たらんとしたのです。言葉を換えて言いますと、時代や制度や社会の秩序を崩壊させてしまうかもしれない危険思想・社会と相反するものが文学そのものであった時代もあったんです。危険思想がすべて文学だなどといっているのではありません、念のため。
 白黒の決着のついた世界で「あれは白、これは黒」と書き分けることより、白黒逆転している世界の中で、「この黒は本当は白、この白は本当は黒」と書き分けることの方がより困難を伴うし、その分、同じ思いを持った人にはより強く受け入れられていったものと思われます。

 明治から大正の小説家は世間では不良でしたし、事実、鴎外や漱石でさえ彼らの作家的行為は彼らの出世の足を引っぱったのです。大正モダニズムの芸術家や詩人たちは一種の奇人変人揃いですが、逆に今の髪を茶色に染め、女の子とところかまわずキスをするフリーターとして日々を送る若者を大正時代の農村にでもおいたら、私たちが感じるどころではない異常さを、大正時代の農村の人々は感じること請け合いです。彼らに弁明の機会が与えられるならば、彼らはおそらく個性の尊重を主張し、男女平等を口にし、職業選択の自由を言うでしょうが、その時代の人々には残念ながら通じません。彼らが、その齟齬を、万が一、文字なり映像作品なりに残して、そして百年後、時代が今日ぐらいの男女認識になればもしかすると、彼らは大正時代突如現れた時代の先駆者、ということになるかもしれません。逆に朝の連続テレビドラマ「あぐり」の亭主吉行エイスケもまた大正時代の小説家ですが、あの時代奇矯にしかみえないああした男女間の平衡感覚や「家」というものに対するドライな在り方、個人主義は、現代社会においては、それほど目新しいことではない、むしろ一般的になってしまったように思うのですが、いかがでしょう。
 また『伊豆の踊り子』が現代社会で初めて発表された作品としたらどうでしょう。川端はまだしも、鴎外の文語調の作品、名文とされる『舞姫』の冒頭「石炭をば早積み果てつ。中等室の卓(つくえ)のほとりはいと静にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたづら)なり」、まず第一に辞書なしに正確に言葉の意味をとることさえなかなかできないでしょう。
 また、川端の踊り子にしても、本来の人間の価値とは別に河原乞食と卑しめられていた芸人たちは、今の社会にはすでに消滅している。もちろん旅回りの芸人やテレビタレント、歌舞伎役者といった人たちはいますが、すくなくとも社会通念として「卑しめられる」ということは、もう、ありません。したがって、彼らが東大出のエリートと恋愛しようが、結婚しようが、もうニュースにはならない。そういう状況下で、川端の「伊豆の踊り子」の持っていた反社会性はどこにもあり得ようがないのです。こうした作品に「現代」という枠を当てはめてしまえば、あとはそうした身分差のあった時代の男女の恋を描く筆力のみが問われることになります。
 けれども思うに、白黒の決着のついた世界で「あれは白、これは黒」と書き分けることより、白黒逆転している世界の中で、「この黒は本当は白、この白は本当は黒」と書き分けることの方がより困難を伴うし、その分、同じ思いを持った人にはより強く受け入れられていったものと思われます。
 「社会」と「個人」の齟齬が文学を生んできた、これがひとつの文学です。

 それでは抑圧する社会や制度がなければ文学は生まれないのか? 個人は生まれてこないのか? ということです。結論からいいますと、個人は社会との対比概念ですから社会的概念のないところに個人の概念はありません。しかし人間が存在する以上、個を抑圧するかどうかを問わず社会は存在し、また個人も存在しています。もう一つの文学は、この個人の中に生まれます。正確にいえば、個人というのは社会的な概念ですから、あえてこのこの言葉を使わず、個人の中の「自我と世界の問題として文学は存在する」ということができます。自我の目覚めとともに世界は開かれます。まだ読んではいませんが、最近話題になったどこかの哲学者が書いた『ソフーの世界』なんかも、おそらくこの自我と世界の問題を扱った作品ではないかと思われます。

 私たちの生は、生きると言うことは、様々な認識や体験を通して人間としての自分を成長させ、自信の世界をかたちづくる営み以外の何者でもありません。そうして形づくられた自分の世界が自我、これに対する自我の外の世界が私がさきほどからいっている自我と対(つい)の概念である「世界」に他なりません。そして私たちの生は、自我がかたちづくられるや世界と向き合い、世界を取り入れることによって新しい自我をかたちづくる、その限りない繰り返しのうえにあります。その意味で、こうした生の営みのなかでは、物理的な意味での老人も若者もありません。若くしても自信の世界を広げようと努めない人は精神の世界ではすでに老人でありましょうし、時間軸にそっては老人以外ではありえなくても絶えざる自我の更新を図っている人にとって世界は常に新しく輝いて出現するような気がします。なんだか宗教がかってきたと思われるかもしれませんが、いわんとするところは自我と世界の領域では新しい発見・感動・認識は無限にあること、時間は無意味であるということ、つまり、さきほど「時代が生み出す文学がある」とはまったく違った概念の人間の生き方があるということを言いたいのであります。この自我と世界の関係を文字にする行為が小説であり、随筆、詩歌であるわけです。


 ここまでお話して、すでに気づいている方も多いかと思いますが、最初にお話した社会と個人の齟齬の生む文学にしても、自我と世界の関係から生まれてくる文学にしても、なにも小説に限ったことではないのです。今まで、私が使ってきた文学という言葉は例えば芸術という言葉に置き換えてもいい。時代によっては、時に小説がこれをリードし、あるいは絵画や彫刻とリンクして文学的覚醒を促した。江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃や文楽がすぐれた文学であったのは人間や人形、音楽がリンクしてつくりだしたものでした。いわゆる芸術一般が文学を担ってきたのです。あるいは映画がこれに加わったこともある。先に申し上げた文学の生まれる土壌から考えてもおわかりの通り、もともと文学は文字の世界だけに限定される営為ではないのです。ただ便宜的に私たちは文字表現による文学的営為を「文学」とは読んでいますが、この文学的行為はもともとは社会と個人、自我と世界の関係のなかに生まれてくるものですから、その時代時代をもっとも鋭角的に切り取る道具がより文学的な文学なのだと思うのです。古い時代のことはよく研究していないのでわかりませんが、明治以降、音楽や美術以上に時代を移す鏡、切り取るメスとしてもっともよく利用され、また影響力もあったのがいわゆる文学だったのは事実です。(後略)

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